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宇都野城/栃木県那須塩原市

宇都野城は、別名・鳩が森城とも呼ばれています。
訪問日は2022年4月9日です。

宇都野城【写真位置】大きな地図を表示
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宇都野城は舌状台地先端にありました。
堀切で隔てられた曲輪が並ぶ連郭式です。
大手は南側とされ、台地先端だったようです。
現在の登城口は東側で、登城路が整備されています。
比高はあまりなく、気軽に訪ねることが出来ます。
宇都野城【1】
【1】東側の旧道 上に戻る

諸兄が登城口として紹介するのが東側です。
ここは旧道で、新道がすぐ横にあります。
ということで、安心してクルマを停められます。
バイクだって気を遣ってるんですヨ!
宇都野城【2】
【2】登城口 上に戻る

私が訪ねる前に見た登城記はココから直登でした。
しかし、実際に来てみるとちゃんと道がありました。
傾斜はそうキツクもないし、比高も無し。
かつてはそうだったんですね。
訪ねる人が多いのか、登りやすく整備されています。
入口には案内図があります。
宇都野城【3】
【3】二郭 上に戻る

登城口から登ってすぐの所が二郭です。
山城というよりは平山城ですからね。
べ、別に足が攣るまで登山したい訳ではないです。
断じてないです。
簡単に行けて凄い遺構が見られれば満足です。
そんな場所は大体開発されちゃいますけどネ。
宇都野城【4】
【4】二郭の南側 上に戻る

さて、普通なら次は主郭へ行く所ですが・・・
某大聖典では、大手は南と記されています。
ちなみに某大御所様の鳥観図には何も描かれていません。
このギャップは是非確かめねば!
そんな悪戯心で来た南側です。
タダの藪ではなく、平坦デス。
ここから下りて行くことが出来ました。
宇都野城【5】
【5】南側の腰曲輪 上に戻る

そして下りた所には広い平坦面が。
これはどう見ても自然地形ではありません。
自然地形だとしても、何も無かった筈はナシ。
腰曲輪と見るのが自然でしょう。
某大聖典では「大手」としている方角ですから。
宇都野城【6】
【6】腰曲輪の土塁 上に戻る

先人の知恵を拝借出来ない所では無理は禁物。
下りやすい所、歩きやすい所を進みます。
南西に進むにつれ、平坦面は小さく下ります。
その先端では、土塁で明確に区画されています。
この近くが虎口だったようです。
形状はよくわかりませんでした。
宇都野城【7】
【7】南の道 上に戻る

西端の小さな水路を飛び越え空き地へ。
すぐ前を道が横切っています。
ココがかつての大手口でしょうか。
東へ進むにつれて地面が掘り下げられています。
この大きな面全体が虎口だったのかもしれません。
右奥の土盛りは土塁の痕跡でしょうか。
宇都野城【8】
【8】東側の帯曲輪 上に戻る

さて、未知の領域を探索後は普通の探索。
二郭と主郭の東側はこんなです。
道に沿っているので、迎撃用の帯曲輪だったのかも。
宇都野城【9】
【9】白旗塚 上に戻る

帯曲輪の端の土塁に「白旗塚」の標示が。
由来は???ですが・・・
ググると、源氏の白旗が由来になってそうです。
白旗城も、源義頼・義家父子に由来していましたし。
足立区にもあるようです。
源氏は、やはり武家の神様的存在なんですね。
宇都野城【10】
【10】主郭と二郭の間の堀切 上に戻る

帯曲輪は主郭と二郭の脇にあります。
なので、その間の堀切にも通じています。
表から見た時には想像も出来ない規模です。
二郭と主郭は、こんな大きな堀切で行き来を制限。
ということは、簡単に行き来出来る帯曲輪は何者?
進入ルートを狭い道に集約していたのでしょうか。
宇都野城【11】
【11】主郭 上に戻る

城跡の中央にあるのが主郭です。
他の曲輪と比べると綺麗に草が刈られています。
奥に見えるのは二條稲荷神社です。
社殿の前に、お城の説明板があります。
宇都野城【12】
【12】主郭の土塁 上に戻る

二郭も土塁に囲まれていましたが・・・
雑草に覆われてよく見えませんでした。
主郭は綺麗に整備されています。
なので、とてもよく見えます♪
宇都野城【13】
【13】主郭と三郭の間の堀切 上に戻る

主郭と三郭の間も堀切で隔てられています。
宇都野城【14】
【14】三郭 上に戻る

三郭は杉林になっています。
ある意味、こちらの方が散策しやすいです♪
とても広く、こっちが主郭?なんて思います。
でも、土塁には囲まれていません。
守りの固さでは主郭の方が上でしょうか。
宇都野城【15】
【15】三郭北側の堀切 上に戻る

三郭の奥も堀切があります。
向こう側には更に平坦地が続きます。
台地基部なので、だんだん幅も広くなってきます。
某大御所様の図でも、曲輪が描かれています。
でも、途中から民有地の敷地っぽい感じです。
あまり変化無さそうなので散策はココまで。


◆歴史◆

1089年、山本家隆により築かれたと伝わります

山本家隆は嶽山箒根神社の別当職でした。
1083年からの後三年の役で源義家に従い活躍。
箒川沿岸8か村、伊佐野郷15か村を与えられました。
白旗塚の由来は、やはり源義家だったんですネ!
1533年、28代・山本資宗の時に大田原資清に攻められ落城。
山本氏は滅び、宇都野城は廃城になった・・・
と、某大聖典や諸兄は記しています。

ギモン点①

大田原資清が1533年に攻め落としたという所です。
大田原資清は1518年、大関宗増の讒言により失脚。
出家して越前国永平寺に居たとされます。
下野に復帰したのは1542年。
大関宗増の後継者を暗殺し、那須家に復帰。
その9年前に下野で軍事行動を起こしたというのが?です。

ただ、そういう事もあり得るのかという状況も。
城主の山本氏は嶽山箒根神社の別当職でした。
嶽山箒根神社でググると、1533年の事が書かれています。
しかし、その後が宇都野城での記述と異なります。
1543年に赦され、山本資宗が別当職に復帰。
以後は大田原氏の祈念所となり70石を寄進されたとあります。
大田原資清の摘男・大関高増は1527年生まれの説もあります。
生母は那須家一門・金丸氏の娘なので、下野に居た可能性も。
大田原資清は失脚後、ずっと越前に居た方が無理な説かもです。

ギモン点②

情報が少ないのでググりまくります。
すると「玉生勝泰が1409年に宇都野城に移った」と出ました。
ここでも別名が「鳩が森城」と記されています。
ココの事を指しているのは間違いないようです。
玉生氏は塩谷氏一門で、川崎城の西の玉生城を本拠とします。
玉生城は以後支城となり、1597年宇都宮氏改易で廃城とあります。
玉生城を紹介する諸兄も、大体この内容を記しています。
ただ、某大聖典の玉生城の項ではそのような記述はナシ。
私もかなり懐疑的です。
一時的にならあったかもしれませんが・・・
玉生城の縄張はかなり簡素だとか。
1409年までの使用なら、それもあり得そうです。
ただ、玉生城とココは結構離れています。
原典を当たってないので、誤読なのかもしれません。

ギモン点③

電子世界を旅するとまだまだ出て来ます。
1564年から2年間、塩谷義綱が滞在したというのです。
1533年に滅んだ筈の山本氏の城に。
塩谷義綱は当時5歳でした。
叔父・塩谷義信が父・塩谷義孝を急襲。
父は討たれ、川崎城からココに逃れました。
2年後、那須氏、宇都宮氏、佐竹氏の加勢で川崎城を奪還。
その後、川崎城に戻り塩谷氏の家督を継いでいます。
父と叔父が争ったのは、宇都宮氏と那須氏の代理戦争でした。
父の正室は宇都宮氏の娘、叔父の正室は大関氏の娘でした。
両方とも那須氏の支援を得ていますが・・・
この時期、那須氏は分裂し争っていました。
当主の那須資胤と大関高増が、ですが。
状況的に、塩谷義綱を支援したのは大関高増でしょうか。
叔父の正室は大関宗増の娘と思われますし。
※大関宗増は大関高増の実父・大田原資清を失脚させた人物です。
ココが大田原氏領だったなら、それも頷けます。


所在地:栃木県那須塩原市宇都野 GPS軌跡ダウンロードページ
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黒羽城/栃木県大田原市

黒羽城は、大関氏の居城でした。
訪問日は2022年4月9日です。

黒羽城【写真位置】大きな地図を表示
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黒羽城は、別名・九鶴城とも呼ばれます。
西の那珂川と東の松葉川に挟まれた丘陵上にありました。
北端部に八幡館跡があり、大関高増により拡張されました。
南端部は大雄寺で、栃木県北部では最大級の城でした。
一部破壊されているものの、堀や土塁などが良く残っています。
三郭には松尾芭蕉の館があります。
松尾芭蕉がどこよりも長い14日滞在したことに拠ります。
黒羽城【1】
【1】駐車場 上に戻る

城跡は公園になっており、立派な駐車場があります。
大きな公園なので、いつもの貸切とは行かず。
位置的には主郭のすぐ東脇です。
なので、ここも曲輪だったのでしょう。
黒羽城【2】
【2】駐車場脇の土塁 上に戻る

駐車場が全面舗装ですが・・・
端は土塁が残っています。
よく残してくれたもんです。
土塁の裏には水堀が少し残っています。
黒羽城【3】
【3】二郭跡にある体育館 上に戻る

とは言え、やられちゃってる所もあります。
それが主郭の北側にあった二郭です。
全面舗装され、体育館だけじゃなく別の建物も。
これだけで済んだのが奇跡ですね。
体育館の隣に空き地があればグラウンドも!
そうなれば主郭も無事では済まなかったでしょうし。
黒羽城【4】
【4】主郭の虎口 上に戻る

駐車場からすぐの階段を上がった所が虎口です。
ここに櫓門でも構えそうな雰囲気です。
でも、ほぼ剥き出しなんですよね。
すぐ脇に道が通ってますし。
本来ならこの前に枡形でもあったような感じです。
黒羽城【5】
【5】横堀 上に戻る

虎口の脇からは、横堀が伸びています。
ココもよく残りましたネ!
黒羽城【6】
【6】主郭 上に戻る

主郭です。
広いです。
桜が綺麗です。
お花見に良さそうですね。
一面ブルーシートだと歩きづらかったですが。
桜の木がこの倍あったらそうなってたかも。
黒羽城【7】
【7】主郭の虎口 説明板 上に戻る

先程とは角度を変えて撮っています。
土塁の配置がやや複雑です。
右奥には先程の横堀があります。
そして、この視点の背後にも大きな堀が。
黒羽城【8】
【8】主郭と三郭の間の堀① 上に戻る

こんな感じで(^o^)
主郭と三郭を隔てている堀です。
流石は大関さん!
スケールがデカイです。
でもこれ、二重堀なんです。
向こう側にも同じ位のがもう1本あります。
黒羽城【9】
【9】主郭西側の横堀 上に戻る

大きな堀を辿ると、西側に横堀があります。
西側は急斜面ですが、一段置く感じです。
切岸を鋭くして出来た段差なのかもしれません。
黒羽城【10】
【10】主郭と三郭の間の土塁 上に戻る

主郭と三郭の間は二重の堀で仕切られています。
その間にあるのは「土塁」らしいですが・・・
普通なら曲輪と呼ばれそうな規模です。
その三郭側には土の壁が。
土塁の上に土塁がある、という事ですナ。
黒羽城【11】
【11】主郭と三郭の間の堀切② 上に戻る

ということで、二重の三郭側の堀です。
台地をぶった斬る巨大な堀です(*´ω`*)
黒羽城【12】
【12】西へ下る道 上に戻る

ただ、この堀底から道が西へ。
地図では西の那珂川に下りる道が描かれています。
みっしり藪ですが、三郭の西側にはこんな平坦地が。
ここも曲輪だったのかもしれません。
黒羽城【13】
【13】三郭南側の堀 上に戻る

三郭の南側も堀で分断されています。
ここまで来るのも大変でしたが。
ご覧の通りで、放置された竹林です。
密生して倒れまくってます。
歩きにくいったらありゃしない♪
黒羽城【14】
【14】三郭の南の曲輪 上に戻る

三郭の南にも平坦地が。
色んな縄張図を見ても特に何も記載無し。
敢えて言えば四郭でしょうか。
そう呼びたくなる何も無い平坦地があります。
黒羽城【15】
【15】堀切 上に戻る

三郭の1つ南の曲輪の南端にある堀切です。
もうこの辺りは色々ノーマークな感じ。
竹が伸び放題枯れ放題です。
黒羽城【16】
【16】堀切からの竪堀(西) 上に戻る

「そこに堀があるから」と辿りました。
ココはそうでもないですが、歩きづらかったです。
一歩一歩どう進めばいいのやら。
鶯の鳴き声が「もぉいやだ♪」に聞こえる程に。
それでも何が何でもこの堀を辿る!で進みました。
我ながら根性出した堀探索です。
黒羽城【17】
【17】堀切からの竪堀(東) 上に戻る

また横方向の堀だ!ということで曲がりました。
東側へ進むと、藪が貼れて視界が拓けました。
めちゃ歩きやすいです。
もう戻りたくね!と思いましたが・・・
このまま下ると大雄寺の境内へ。
小心者なので、再び元の竹藪へ戻ったのでした。
黒羽城【18】
【18】土塁と水堀の標柱 上に戻る

うぉぉ、くぁぁと枯れ竹藪の堀跡を・・・
三郭南端の横堀まで戻り表の道へ。
ようやくヒトらしい道に戻りました。
あとは駐車場へ戻るだけです。
道端には土塁・水堀跡の標柱が。
もう怖い物なんて無ぇ!ということで進みます。
黒羽城【19】
【19】稲荷社にある土塁 上に戻る

標柱から入った所は稲荷神社でした。
流石に祀られているだけあって歩きやすい!
そしてちゃんと土塁も拝むことが出来ました。
黒羽城【20】
【20】水堀 上に戻る

そして、道端から見える水堀です。
向こう側は駐車場です。
色々開発されてはいますが、何だかんだで残ってます。
藪が恋しい方にもちゃんと楽しめる黒羽城でした。


◆歴史◆

1576年、大関高増により築かれました

と一般的に言われます。
が、元々ココには八幡館がありました。
八幡館は那須家重臣・角田氏の本拠地です。
角田氏は古くから那須家に従っていました。
三浦介の末裔で、源頼朝が那須で巻狩した時に土着したとされます。
その角田氏が居館としたのが八幡館でした。
大関氏は武蔵七党の丹党の末裔と称しています。
しかし、近年では常陸国の小栗氏から派生した説が濃厚です。
その初代の生母が、角田氏から嫁いだ娘でした。
母方の祖父である角田氏は、孫を引き取り育てたそうです。
その子は小栗庄大関郷に住み、やがて大関姓を名乗りました。
大関氏は、角田氏の血を引き継ぐ一族だったのです。
・・・大関高増は大田原氏から入った養子でしたけど。
大関高増が黒羽城を築いたため、角田氏は奥沢館へ移ります。
以後は奥沢姓へ改姓し、大関氏に従いました。

1590年、大名として独立しました

豊臣秀吉の小田原征伐は、東国の勢力図を書き換えました。
ココ下野国も例外ではありません。
大関高増の主家・那須家も、様子見をして改易されました。
大関高増らは小田原への参陣を勧めたそうですが。
このままでは改易されると、主家を見限り参陣。
小田原の向こう側の沼津まで出向く念の入れようでした。
そのため、大関高増は1万3千石を安堵されます。
一方、参陣を拒んだ那須資晴は改易されました。
甥の大田原晴清が謝罪し、何とか5千石を許されています。
大関氏は大田原氏とともに関ヶ原の戦で上杉家を監視。
その功として7千石加増され、2万石となりました。
江戸時代に分知し1万8千石となりましたが・・・
国替えされることなく、明治時代まで続きました。
戊辰戦争では、黒羽藩は維新政府軍につきます。
1871年、廃藩置県により廃城となりました。


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須賀川要害/栃木県大田原市

須賀川要害は、境目にあった山城です。
訪問日は2022年4月9日です。

須賀川要害【写真位置】大きな地図を表示
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須賀川要害は、別名・明神砦とも呼ばれます。
常陸国との境目の城でした。
東にある関ノ多和峠から下った所にあります。
細長い山の上にまっすぐ曲輪を連ねています。
堀はそれ程深くなく、土塁などもありません。
防御のための城ではなかったようです。
須賀川要害【1】
【1】入口 上に戻る

南北に通る道から、ちょっと山側に入った所です。
ここで道が二又に分かれています。
その付け根の所に1台くらいなら停められます。
・・・もちろん四つ脚のクルマもです(^_^;)
ここから右へ向かいます。
ネタバレすると、背後の尾根を登るのが正解です。
須賀川要害【2】
【2】右斜め手前へ登る道 上に戻る

でも、来た時にはそうとは知らず。
こっちの尾根を登るんだよなぁと進みます。
尾根側には上がる道が見えましたが・・・
方向が逆なんだよなぁと通り過ぎます。
再びネタバレすると、ここからも登れます。
尾根先端よりも、だいぶ二足歩行動物らしく。
須賀川要害【3】
【3】見上げた景色 上に戻る

上の写真の位置から、進行方向はこう見えます。
木が伐採されて裸山になっています。
目指す城跡は、正面の山の上です。
どう登ろうかと考えました。
右側の谷にピンクテープが見えました。
お、先人サンキュー(*'▽')と思いましたが・・・
木を伐採する時の目印だったようです。
須賀川要害【4】
【4】祠 上に戻る

ということで、登りは直登してしまいました。
ここからは下って来たルートを逆巻きで書きます。
尾根先端を少し登った所に祠があります。
2の道はココに通じています。
下を見ると、歩けそうな勾配でした。
ここから尾根を登って城跡に行けます。
須賀川要害【5】
【5】堀切 上に戻る

祠から少し登った所に堀切があります。
小さいとはいえ、城跡で見られるものです。
須賀川要害【6】
【6】虎口 上に戻る

堀切のすぐ上には左右に土が盛られています。
もったいぶりますが、虎口ですね(*´▽`*)
目の前の堀切もセットです。
ココが須賀川要害の玄関口のようです。
須賀川要害【7】
【7】尾根 上に戻る

尾根はこんな感じで登りやすいです。
所々小さな段になっています。
直登したのがバカらしく思えました。
須賀川要害【8】
【8】下の段の道 上に戻る

尾根が稜線にぶつかる所です。
横方向に道があります。
ココを通ると竪堀に行き当たります。
そこからまっすぐ登った所が主郭です。
・・・というので帰りをそっちから。
まずは高みを目指します。
須賀川要害【9】
【9】道を横切る堀 上に戻る

稜線を登ると、横一線に凹んだ所があります。
どうやらココでひと区切りあったようです。
後から手前が二郭、先が主郭と判明。
とはいえ、結構傾いています。
曲輪とは思えないくらいに。
須賀川要害【10】
【10】主郭 上に戻る

まぁでも、範囲全てが曲輪という訳でもなし。
その中に平らに馴らした場所があるというコト。
ココら辺は削る平は粗いもののほぼ平らです。
須賀川要害【11】
【11】堀切 上に戻る

登り切ったなぁと感じる辺りにあります。
ハッキリした堀切なので、端から端まで堪能。
ココは主郭と三郭を隔てる堀切です。
須賀川要害【12】
【12】段差 上に戻る

三郭も緩やかに下ります。
土塁が無くただ平らにしたような感じです。
きちんと平らにしてはいませんが。
須賀川要害【13】
【13】三郭 上に戻る

振り返って見た三郭です。
稜線にしては幅が広いと感じる程度です。
まぁそれでも自然地形には見えません。
須賀川要害【14】
【14】堀切 上に戻る

三郭下端の堀切です。
ここも浅いです。
それでもしっかりと視認は出来ています。
須賀川要害【15】
【15】尾根 上に戻る

堀切から先は曲輪なのかそうじゃないのか。
今までが今までなので、ちょっと?です。
幅が狭く中央がこんもりなので、自然地形ぽいです。
人の手が入ってる感じはあまりしません。
須賀川要害【16】
【16】虎口 上に戻る

それでも進んで行くとこんな溝があります。
稜線の真ん中を縦に掘っています。
その先が段差になっており虎口のようです。
じゃぁその手前はやっぱり曲輪?
山城ってこういうのがあるのでちょっと難しいデス。
須賀川要害【17】
【17】竪堀 上に戻る

ひと通り見終わったので帰ります。
主郭手前の堀切から斜めの道へ。
下ってすぐの所にも段差があります。
ここに竪堀があり、横道も分岐します。
せっかくなので、両方の道を辿ってから下りました。


◆歴史◆

不明です

城主が誰とかいつ築かれたとか。
その辺りの情報が見つからず。
構造もシンプルなので陣城と思われます。
境目なので、那須氏・佐竹氏どちらの城なのか。
地形的には、東に流れる川を堀と見立てられます。
なので、恐らく那須氏の城と思います。
まっすぐ西へ進むと黒羽城がありますし。
大関氏の城ならば、那須資胤との和睦後でしょう。
大関高増は佐竹義昭と組んで、那須資胤と争っていました。
那須資胤との和睦後も、佐竹軍は攻めて来ました。
でも那須氏が佐竹氏を攻めたことは無かったような。
佐竹軍の侵攻を防ぐ拠点だったのかもしれません。


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金丸氏要害/栃木県大田原市

金丸氏要害は、藪に埋もれた巨大城郭です。
訪問日は2022年4月9日です。

金丸氏要害【写真位置】大きな地図を表示
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金丸氏要害は、亀山城の南隣にあります。
規模はかなり大きく、那須七騎の城並みです。
それぞれの曲輪は、広く深い堀で囲まれています。
主郭と二郭、主郭と三郭の間の堀切は見応えがあります。
ただ、全般的に藪に覆われています。
虫がいない季節でなければ散策は難しいです。
金丸氏要害【1】
【1】道から見えた横堀 上に戻る

亀山城の散策を終え、そのまま林道を南へ。
しばらく進むと、右側がぽっかり空きます。
ここが金丸氏要害の主郭の横堀です。
ここから反時計周りに堀底を進みました。
金丸氏要害【2】
【2】主郭の横堀 上に戻る

主郭の切岸に沿って奥へ伸びます。
斜面に沿っていて、所々外側に土塁があります。
こんな感じなので、ちょっと歩きにくいです。
金丸氏要害【3】
【3】主郭と二郭の間の堀切 上に戻る

奥へ進むと、大きな堀切があります。
横堀は堀切の中を進みます。
左が主郭、右が二郭です。
私はここで右へ曲がり二郭へ。
金丸氏要害【4】
【4】二郭の犬走り 上に戻る

二郭は細長く、外周がこんなです。
先端で折り返し、堀切手前まで続きます。
反対側の堀切手前には、大きな竪堀があります。
金丸氏要害【5】
【5】二郭の土塁 上に戻る

竪堀に行く手を阻まれたので二郭に上がりました。
そこから曲輪の形に沿って一周しました。
付け根の堀切側には大きな土塁があります。
金丸氏要害【6】
【6】土塁脇から見た主郭と二郭の間の堀 上に戻る

3の堀切を二郭土塁脇から撮りました。
かなり幅のある立派な堀切デス(^▽^*)
金丸氏要害【7】
【7】四郭 上に戻る

二郭奥側の付け根下からの光景です。
ここは堀ではなく、一段低い四郭です。
左が二郭、奥が主郭は切岸の上です。
高さは3、4メートル程あります。
金丸氏要害【8】
【8】主郭の虎口 上に戻る

主郭に上がりたいなぁと切岸の下をウロウロ。
しばらく反時計回りに進んだら虎口がありました。
表の林道からは真裏になります。
城内の進路は堀底を回り込む形のようです。
金丸氏要害【9】
【9】主郭上から見た横堀 上に戻る

ここが主郭かぁと、堪能しながら歩きました。
とは言っても、いつも通りの平らな藪です。
外周を歩いていると、入って来た横堀が。
上から見ると、やはり壮観です(*´ω`*)
金丸氏要害【10】
【10】主郭の土塁 上に戻る

二郭との間の堀切沿いに、高い土塁があります。
ここが城内では一番造りが厳重な感じです。
堀底を進んで来た敵を上から迎撃。
さらに堀切で二郭から挟み撃ち。
そんな感じに見えます。
金丸氏要害【11】
【11】主郭の土塁 上に戻る

主郭の堀切より奥側に土塁があります。
ココは曲輪の端に殆ど土塁がありません。
なので、とてもレアな光景です。
主郭西側は四郭です。
四郭はもしかしたら捨て曲輪だったのかも。
金丸氏要害【12】
【12】四郭 上に戻る

三郭の切岸の直下です。
四郭は厳密には西のもう一段下です。
曲輪の形をなぞるため外周を歩きたかったのですが・・・
ご覧の通り、荒れた竹林で奥へ進めませんでした。
とりあえず辿り着きはした、ということで。
金丸氏要害【13】
【13】主郭と三郭の間の堀 上に戻る

主郭と三郭の間にも立派な堀切があります。
堀切は真っすぐ林道に出ています。
金丸氏要害【14】
【14】三郭上から見た横堀 上に戻る

三郭に上がり、ここでも外周を進みます。
内部の写真も撮ってはいるのですが・・・
誰が見ても、ただの藪です。
「これはどこのお城でしょう?」
なんてクイズが出たら、きっと誰も答えられません。
曲輪上からまともな写真が撮れるとすればこれ。
藪の薄い所では、横堀が綺麗に撮れます。
東側の林道は、ここでは堀から離れています。
金丸氏要害【15】
【15】三郭と五郭の間の堀 上に戻る

三郭の藪を掻き分け外周を辿ります。
やがて視界が明るくなり、堀に出ました。
堀の向こう側が五郭です。
この堀はあまり深くありませんが、幅は広いです。
金丸氏要害【16】
【16】五郭 上に戻る

五郭と言っても端の堀です。
内部はまぁ、草しか写りませんので。
ここが城域の南端になりそうです。
金丸氏要害【17】
【17】林道脇の竪堀 上に戻る

五郭の堀から林道に出ると、道端が凹んでいます。
下る斜面にはまっすぐなアレが。
もちろん下りました。
もうここでおしまいのつもりでしたので。
やはり堀は、凹んでなんぼです。
金丸氏要害【18】
【18】四郭の横堀 上に戻る

竪堀でおしまいのつもりが再び藪へ。
三郭の西側を辿っていませんでした。
外周に沿って進むと超カッコイイ横堀が。
そのまま進んだ所です。
この堀はこの先、斜面に沿って下ります。
堀の分岐から三郭沿いに進むと、堀切に戻って林道へ。
こっち側からも四郭は強敵でした。


◆歴史◆

鎌倉時代初期、片田義隆により築かれたようです

一般的には金丸資国が築いたとされます。
しかし、金丸資国について調べると亀山城を修築しています。
亀山城は、片田義隆により築かれた城です。
片田義隆は、那須氏初代・那須資隆の子です。
平安時代末から鎌倉時代初期にかけ活躍しました。
はじめは片田を拠点とし、後に片平へと移っています。

一方、金丸資国は約200年後の人物です。
那須資藤の次男で、最初は金丸の地を与えられました。
金丸は、大関氏の居城・白旗城のすぐ南側です。
当初はそこに根小屋館を築き拠点としました。
後に、片田郷亀山を加増されてココに移りました。
この時に亀山城を修築したというのです。
もしそうなら「亀山城」はココも含めた一帯です。
単郭の小城ではなかったということですね。

戦国時代の金丸氏

金丸氏の系図では、各世代間の年代が長いようで・・・
他の史料と組み合わせて考察されるようです。
なので、断片的には歴史を辿れそうです。

金丸氏初代・金丸資国は、観応の擾乱の時期の人物です。
父・那須資藤は1355年、足利直冬との戦で戦死しています。
兄・那須資世は、鎌倉公方・足利氏満に従いました。
1382年に小山氏討伐で勲功を立て、関東八家に数えられました。
これにより勢力を拡大したとされます。
・・・この時代の人物です。
当人の事績は?です。。。

すぐ近くで起きた事件は、1514年の上那須家断絶です。
養子の那須資永が先代の実子・山田資久を殺害した事件です。
山田資久は、3歳の時に山田城(亀山城)の城主になりました。
金丸義政が養育していたとされます。
先代・那須資親は山田資久を後継者に指名。
養子に迎えた那須資永を討つよう遺言しました。
那須資親の没後、上那須家の家臣団が那須資永を討伐。
那須資永は抵抗しますが、兵が集まらず。
そのため、山田資久を自らの居城に連れ去りました。
そしてそのまま殺害し、自らも命を絶ちました。
人質にするというより、自棄だった感じがします。
これにより上那須家は断絶。
養育していた金丸義政は、さぞ責められたことでしょう。

この時期の大関氏は、大関宗増が当主でした。
居城は、金丸氏要害のすぐ西にあった大関城です。
大関城は山田館とも呼ばれています。
片田義隆は平時は山田館で暮らし、亀山城は詰城でした。
つまり、元々は金丸氏要害は大関城の詰城という関係でした。
金丸氏の最初の拠点は、白旗城のすぐ近くでした。
どうも大関氏とはご近所関係が続いていたようです。
大関宗増は1518年、大田原資清を失脚させます。
大田原資清は出家し、越前へ去ったとされます。
これにより、大関宗増は那須家中で専横を極めます。
ここで少し?な事が起きます。
金丸河内守が、娘を大田原資清に嫁がせています。
大田原資清は1518年に失脚し、1542年に復帰します。
長男の誕生が1527年とされるので、ガッツリ失脚中です。

推測ですが・・・
1514年に登場するのは金丸義政ですが・・・
金丸義政は肥前守です。
数少ない系図では、次の当主は金丸下総守義直です。
金丸河内守は、金丸義政の兄弟でしょうか?
大田原資清は1542年、大関宗清に復讐します。
その後継者・大関増次を奇襲で討ち取ります。
大田原資清はなぜか大関増次を目の敵にしていたようです。
どうして?と思っていたら、生年が失脚した年でした。
50歳前後でようやく授かった後継者のようです。
大田原資清は、自分の子を大関家の後継者にしました。
同じく讒言した福原家にも自分の子を送り込んでいます。
武家としては一番惨い仕返しかもしれません。
この子達の生母が、金丸河内守の娘です。
金丸氏も、大関宗増に恨みがあったのかもしれません。

大関氏の家臣となり廃城になりました

1590年、那須資晴が改易されました。
一方、その家臣・大関高増は所領を安堵されました。
これは小田原征伐への対応によるものです。
那須資晴は、宇都宮氏や佐竹氏同様に様子見でした。
大関高増らは小田原への参陣を促したようですが。
マズイと感じた大関高増は、独自に小田原征伐に参陣。
小田原の向こう側の沼津まで出向いています。
この時、大関高増は金丸義胤を「家臣」として申告。
そのため、金丸氏の領地も含めて安堵されています。
しかし、石高は500石・・・
巨大な城を維持出来る訳もなく廃城となりました。
その後は麓に館を築いて移ったとされます。
その場所は「宮跡(みやと)」と呼ばれているようですが・・・
ググりまくっても位置はわかりませんでした。

所在地:栃木県大田原市片田 GPS軌跡ダウンロードページ
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亀山城/栃木県大田原市

亀山城は、上那須家終焉の舞台となりました。
訪問日は2022年4月9日です。

亀山城【写真位置】大きな地図を表示
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亀山城は、別名・山田城とも呼ばれています。
大御所様の仰せの通り、南東の石切場から登りました。
確かにそれで城跡には辿り着けます。
しかし、こちら側には虎口がありませんでした。
明らかに往時の登城ルートではありません。
大多数の諸兄は、北西の廃屋付近から登っています。
そこから斜面を登ると、主郭北側の虎口に通じています。
でも、私は登城口は別にあると思っています。
城跡の北側には、広大な平坦地が数段連なっています。
しかも、1か所だけ対岸から登れる場所があります。
ココが虎口で、平坦地群を通るのではないかと思いました。
学の無い一匹の城キチの戯言ではありますが。
実際に見て感じたままを書こうと思います。
亀山城【1】
【1】南側の未舗装路 上に戻る

まずは先人の紹介通り、南側の未舗装路から城跡へ。
普通に見ても、どっちに進むかわからない分岐です。
亀山城【2】
【2】石切場 上に戻る

まぁでも、地図の通りということで。
ザックリ石切場に到着です。
写真では伝わりませんが・・・
垂直の切り口は10メートル以上あります。
真下に立って見上げると、首が痛くなります。
亀山城【3】
【3】上から見た石切場 上に戻る

山上へは、写真左上の斜面を登りました。
道はありませんが、難なく登れます。
登ってからは、石の切断面に沿って進みます。
大御所様は下を覗き込んでおられましたが・・・
私も(*´σー`)
超危ないので、おススメ出来ません。
亀山城【4】
【4】自然地形 上に戻る

山上に上がると、傾斜はありません。
しかし、人の手が加わった様子がありません。
ココ本当に城跡?という位に自然地形です。
背後に備えるため、堀切があっていいのですが。
コチラ側はその必要も無いという事でしょうか。
亀山城【5】
【5】石を切り出した跡? 上に戻る

城跡方向に延びる稜線をひたすら辿ります。
幅は広くないものの、ほぼ水平です。
そんな調子でしたが、突如地面に窪みが。
稜線の半分を削る感じの長方形です。
ここだけ幅が狭まります。
明らかに人工的ですが、整い過ぎです。
ここでも石を切ったようです。
亀山城【6】
【6】土塁 上に戻る

そこからすぐに、稜線が急に盛り上がります。
進行方向から見て左右に遮る感じに。
上がって見ると土塁でした。
石切場方向には虎口はありません。
普通にここで空間を区切っています。
亀山城【7】
【7】主郭 上に戻る

土塁の内側は広い平坦地です。
ここが亀山城の主郭です。
土塁に一周囲まれています。
亀山城【8】
【8】虎口 上に戻る

そんな土塁が1か所だけ窪んでいます。
北側です。
ココから左に折れる感じで掘られています。
見るからにここが主郭への入口です。
だとすれば、大手口はこっちというのが自然。
ならばどこに通じているのか?と思うのでした。
亀山城【9】
【9】堀切 上に戻る

虎口から、道と思しき所を下ります。
飽くまで、道を辿ろうという感じで。
北側の斜面には、所々小さな段があります。
中にはこんな感じの所まで。
明らかに人の手が加わっています。
これは是非とも突き止めねば!
亀山城【10】
【10】虎口? 上に戻る

尾根を下った道は左側へ。
ここから斜面に沿って道があります。
この道を辿ると竹林へ。
亀山城【11】
【11】廃屋の裏に出ました 上に戻る

さらに下ると廃屋の裏に出ました。
これだけ荒れてると流石に住んでないでしょう。
どうにかすれば、表の道に出られそうです。
亀山城【12】
【12】曲輪群? 上に戻る

麓から主郭に通じる道を辿りました。
でも、どうしても気になる光景が。
10の下る道の反対側に、広い平地が見えました。
私にはどうにも曲輪に見えて仕方がありません。
廃屋裏から登り、今度は右側へ。
すると、かなり広い平坦地が連なっています。
東西に細長い平坦面が、数段続いています。
ただ、土塁や虎口といったものは見られず。
古い年代のお城なら、こういう曲輪もありでしょう。
亀山城【13】
【13】虎口? 上に戻る

そんな段々の平坦面を見て「畑?」とも思いました。
そのまま進むと、ザックリした所に行き当たります。
周囲の地形から、明らかに人の手が加わっています。
他は急な傾斜なので、下りる所はココしかありません。
亀山城【14】
【14】橋 上に戻る

溝に沿って下りたら、ココに出ました。
正面に橋があります。
という事で、ココからも城跡に行けます。
城の北側には、東西に川が流れています。
たぶん、堀の役割を果たしたのでしょう。
ただ、それにしては城側の方が低いです。
もし堀なら、向こう側を低くせねば!です。
亀山城【15】
【15】虎口? 上に戻る

下りて来た溝です。
橋側からはこう見えます。
剥き出しの岩は、人の手で削られた切岸でしょうか。
平坦地群の下には切岸が続くので、直接上がれません。
溝は右に曲がって、先程の平坦地群へ。
ただ、この谷状の地形は真っすぐ伸びています。
等高線でもこっち側の傾斜が緩くなっています。
もしかしたら、何かしら遺構があるかもしれません。


◆歴史◆

鎌倉時代初期に片田義隆により築かれました

片田義隆は、那須家初代・那須資隆の八男です。
ということで、那須与一の兄です。
「与一」は十余一ということで十一男なので。
源平合戦の際、那須資隆の子の内9人が平家方でした。
源氏方だったのは十男の那須為隆と十一男の与一だけでした。
那須与一は終戦後、各地に逃れていた9人の兄を赦免。
各地に領地を与え、一族で那須家を支える体制を築きました。
片田義隆はその一人ということになります。
平時は山田館(大関城)に居住し、亀山城は詰城でした。
仁治年間(1240-43年)に片平城を築いて移りました。
以後は片平姓を名乗るようになります。

1514年、上那須家が断絶しました

那須家では何度か分断がありました。
その1つがこの年に終わりました。
両者共倒れという結末で。
争っていたのは那須資永と山田資久です。
2人は先代当主・那須資親の養子と実子です。
那須資親は後継ぎに恵まれず、養子を迎えていました。
養子は白河結城氏の次男で、娘婿として来ました。
しかしその後、那須資親が男児を授かりました。
これが、山田資久です。
山田資久は、3歳の時に亀山城に移されました。
那須資親は
・山田資久を次の当主にする
・那須資永を撃ち滅ぼせ
という遺言を残して世を去りました。
この遺言に従い、大田原資清らが那須資永の居城に侵攻。
那須資永は兵を募るも集まらず。
守りが薄かった亀山城から、山田資久を連れ出しました。
幼い義弟を人質にとったものの、討伐勢は退かず。
那須資永は山田資久を殺害した後、自害しました。
これにより上那須家は断絶しました。
以後は下那須家の那須資房が当主となります。

那須政資が城主になりました

1516年、那須政資が亀山城の城主になりました。
那須政資は、那須資房の子です。
先年討伐の末自害した那須資永は、結城顕頼の弟でした。
そのため、那須氏と白河結城氏の関係が悪化したのでした。
白河結城氏からの侵攻に備えての配置でした。
結城顕頼は1520年、岩城由隆を誘って那須政資を攻撃。
この攻撃は宇都宮氏に援軍を依頼し撃退しました。
岩城由隆は翌年、宇都宮忠綱や小田政治とともに再度侵攻。
那須資房がより堅固な烏山城に籠り、岩城軍らは撤退します。
那須資房は、佐竹氏に仲介を依頼し岩城由隆と和睦。
その後、那須政資が家督を継いで烏山城に移りました。
以後の亀山城については不明です。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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