2023/09/30
宇都野城/栃木県那須塩原市
宇都野城は、別名・鳩が森城とも呼ばれています。
訪問日は2022年4月9日です。
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宇都野城は舌状台地先端にありました。
堀切で隔てられた曲輪が並ぶ連郭式です。
大手は南側とされ、台地先端だったようです。
現在の登城口は東側で、登城路が整備されています。
比高はあまりなく、気軽に訪ねることが出来ます。 |
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【1】東側の旧道 上に戻る
諸兄が登城口として紹介するのが東側です。
ここは旧道で、新道がすぐ横にあります。
ということで、安心してクルマを停められます。
バイクだって気を遣ってるんですヨ! |
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【2】登城口 上に戻る
私が訪ねる前に見た登城記はココから直登でした。
しかし、実際に来てみるとちゃんと道がありました。
傾斜はそうキツクもないし、比高も無し。
かつてはそうだったんですね。
訪ねる人が多いのか、登りやすく整備されています。
入口には案内図があります。 |
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【3】二郭 上に戻る
登城口から登ってすぐの所が二郭です。
山城というよりは平山城ですからね。
べ、別に足が攣るまで登山したい訳ではないです。
断じてないです。
簡単に行けて凄い遺構が見られれば満足です。
そんな場所は大体開発されちゃいますけどネ。 |
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【4】二郭の南側 上に戻る
さて、普通なら次は主郭へ行く所ですが・・・
某大聖典では、大手は南と記されています。
ちなみに某大御所様の鳥観図には何も描かれていません。
このギャップは是非確かめねば!
そんな悪戯心で来た南側です。
タダの藪ではなく、平坦デス。
ここから下りて行くことが出来ました。 |
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【5】南側の腰曲輪 上に戻る
そして下りた所には広い平坦面が。
これはどう見ても自然地形ではありません。
自然地形だとしても、何も無かった筈はナシ。
腰曲輪と見るのが自然でしょう。
某大聖典では「大手」としている方角ですから。 |
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【6】腰曲輪の土塁 上に戻る
先人の知恵を拝借出来ない所では無理は禁物。
下りやすい所、歩きやすい所を進みます。
南西に進むにつれ、平坦面は小さく下ります。
その先端では、土塁で明確に区画されています。
この近くが虎口だったようです。
形状はよくわかりませんでした。 |
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【7】南の道 上に戻る
西端の小さな水路を飛び越え空き地へ。
すぐ前を道が横切っています。
ココがかつての大手口でしょうか。
東へ進むにつれて地面が掘り下げられています。
この大きな面全体が虎口だったのかもしれません。
右奥の土盛りは土塁の痕跡でしょうか。 |
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【8】東側の帯曲輪 上に戻る
さて、未知の領域を探索後は普通の探索。
二郭と主郭の東側はこんなです。
道に沿っているので、迎撃用の帯曲輪だったのかも。 |
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【9】白旗塚 上に戻る
帯曲輪の端の土塁に「白旗塚」の標示が。
由来は???ですが・・・
ググると、源氏の白旗が由来になってそうです。
白旗城も、源義頼・義家父子に由来していましたし。
足立区にもあるようです。
源氏は、やはり武家の神様的存在なんですね。 |
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【10】主郭と二郭の間の堀切 上に戻る
帯曲輪は主郭と二郭の脇にあります。
なので、その間の堀切にも通じています。
表から見た時には想像も出来ない規模です。
二郭と主郭は、こんな大きな堀切で行き来を制限。
ということは、簡単に行き来出来る帯曲輪は何者?
進入ルートを狭い道に集約していたのでしょうか。 |
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【11】主郭 上に戻る
城跡の中央にあるのが主郭です。
他の曲輪と比べると綺麗に草が刈られています。
奥に見えるのは二條稲荷神社です。
社殿の前に、お城の説明板があります。 |
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【12】主郭の土塁 上に戻る
二郭も土塁に囲まれていましたが・・・
雑草に覆われてよく見えませんでした。
主郭は綺麗に整備されています。
なので、とてもよく見えます♪ |
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【13】主郭と三郭の間の堀切 上に戻る
主郭と三郭の間も堀切で隔てられています。 |
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【14】三郭 上に戻る
三郭は杉林になっています。
ある意味、こちらの方が散策しやすいです♪
とても広く、こっちが主郭?なんて思います。
でも、土塁には囲まれていません。
守りの固さでは主郭の方が上でしょうか。 |
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【15】三郭北側の堀切 上に戻る
三郭の奥も堀切があります。
向こう側には更に平坦地が続きます。
台地基部なので、だんだん幅も広くなってきます。
某大御所様の図でも、曲輪が描かれています。
でも、途中から民有地の敷地っぽい感じです。
あまり変化無さそうなので散策はココまで。 |
◆歴史◆
1089年、山本家隆により築かれたと伝わります
山本家隆は嶽山箒根神社の別当職でした。
1083年からの後三年の役で源義家に従い活躍。
箒川沿岸8か村、伊佐野郷15か村を与えられました。
白旗塚の由来は、やはり源義家だったんですネ!
1533年、28代・山本資宗の時に大田原資清に攻められ落城。
山本氏は滅び、宇都野城は廃城になった・・・
と、某大聖典や諸兄は記しています。
ギモン点①
大田原資清が1533年に攻め落としたという所です。
大田原資清は1518年、大関宗増の讒言により失脚。
出家して越前国永平寺に居たとされます。
下野に復帰したのは1542年。
大関宗増の後継者を暗殺し、那須家に復帰。
その9年前に下野で軍事行動を起こしたというのが?です。
ただ、そういう事もあり得るのかという状況も。
城主の山本氏は嶽山箒根神社の別当職でした。
嶽山箒根神社でググると、1533年の事が書かれています。
しかし、その後が宇都野城での記述と異なります。
1543年に赦され、山本資宗が別当職に復帰。
以後は大田原氏の祈念所となり70石を寄進されたとあります。
大田原資清の摘男・大関高増は1527年生まれの説もあります。
生母は那須家一門・金丸氏の娘なので、下野に居た可能性も。
大田原資清は失脚後、ずっと越前に居た方が無理な説かもです。
ギモン点②
情報が少ないのでググりまくります。
すると「玉生勝泰が1409年に宇都野城に移った」と出ました。
ここでも別名が「鳩が森城」と記されています。
ココの事を指しているのは間違いないようです。
玉生氏は塩谷氏一門で、川崎城の西の玉生城を本拠とします。
玉生城は以後支城となり、1597年宇都宮氏改易で廃城とあります。
玉生城を紹介する諸兄も、大体この内容を記しています。
ただ、某大聖典の玉生城の項ではそのような記述はナシ。
私もかなり懐疑的です。
一時的にならあったかもしれませんが・・・
玉生城の縄張はかなり簡素だとか。
1409年までの使用なら、それもあり得そうです。
ただ、玉生城とココは結構離れています。
原典を当たってないので、誤読なのかもしれません。
ギモン点③
電子世界を旅するとまだまだ出て来ます。
1564年から2年間、塩谷義綱が滞在したというのです。
1533年に滅んだ筈の山本氏の城に。
塩谷義綱は当時5歳でした。
叔父・塩谷義信が父・塩谷義孝を急襲。
父は討たれ、川崎城からココに逃れました。
2年後、那須氏、宇都宮氏、佐竹氏の加勢で川崎城を奪還。
その後、川崎城に戻り塩谷氏の家督を継いでいます。
父と叔父が争ったのは、宇都宮氏と那須氏の代理戦争でした。
父の正室は宇都宮氏の娘、叔父の正室は大関氏の娘でした。
両方とも那須氏の支援を得ていますが・・・
この時期、那須氏は分裂し争っていました。
当主の那須資胤と大関高増が、ですが。
状況的に、塩谷義綱を支援したのは大関高増でしょうか。
叔父の正室は大関宗増の娘と思われますし。
※大関宗増は大関高増の実父・大田原資清を失脚させた人物です。
ココが大田原氏領だったなら、それも頷けます。
所在地:栃木県那須塩原市宇都野 GPS軌跡ダウンロードページ
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