2018/01/05
野首城/宮崎県小林市
野首城は野頸城・野久尾城とも表記され、伊東48城の1つに数えられています。訪問日は2017年12月31日です。

野首城はまだ誰も紹介しておらず、位置を特定するのにとても苦労しました。
少ない文章から色々と条件に当てはまる場所を、ここに絞り込みました。
本当にココかどうかは「来てみなければわからない」という状況でしたが・・・

割とアッサリ見つかりました


この標柱すらネット上ではアップされていないので、まさかあるとは思いませんでしたw

数少ない情報では
・北、東、南側は川に面していて出城がある
・川に面していない西側は空堀で隔てている
だけ。
西側から見たのがココなので、これが空堀かぁ


西側からは土橋が架けられたような感じでつながっています。
この曲線美、イイですね




さて、どこから城内に入るのか?とキョロキョロしていると・・・
城址標柱のすぐ後ろに、ザクっと空堀が口を開けていました。
自然に体が吸い寄せられましたw

深さ3メートル程の堀底を歩きます。
事前予想では、木々の茂る藪の中を「どこが何じゃ~」と探る様子を思い浮かべていました。
しかし、思ったよりもずっと草も無く、綺麗な堀底をルンルン



堀は大きく右へカーブし、断崖の所で終わっていました。
前方には堀切が見えています

・・・見えますよね?

ただ、この時にすぐ右脇にもう1つ、もっと深そうな堀が見えました。
そちら側の土の壁を斜めに登った跡があったので辿ると・・・
すぐ隣にもう1本、もっと大きな堀が並んでいました



写真は、その堀と堀の間の土塁の上から撮ったものです。

こちらの堀の堀底を歩くと、元来た方向に戻っていました。
一番深い所で5メートル以上はありそうです。

そのまま進み続けると、最初の道の上に出ました。

ここまででも十分満足だったのですが、欲はどんどん膨らみます。
まだ、二重堀の内側を見ていません!
どこから入るのか、そんな情報も一切ナシ。
とりあえず道の上を城塁に沿って歩いてみました。
何となくですが、帯曲輪っぽさがありそうな、なさそうな。

帯曲輪っぽいのは、断崖っぽい所で終わっていました。
そのすぐ手前に、城塁を斜めに登った跡があったので、素直に辿ってみました。
すると、ちょっとした平場があり、その眼前に再び城塁が現れました。
どうやら、二重堀の内側の曲輪へは、ここからが高低差が少ないようです。

虎口っぽい窪みが無かったのですが、傾斜が緩かったのでそのまままっすぐ登りました。
そこから見た曲輪の内部の様子です。
かなり広いので、おそらくここが主郭と思われます。

二重堀に面していない外周部分には、土塁は付けられていませんでした。
この曲輪の形をGPSロガーでトレースしようと外周を歩いていると・・・
何だか下に、外側に向かって平場が伸びています。
その付け根が・・・

堀切になっていました


外に伸びる曲輪は、右側に帯曲輪が付いていました。

その先にさっきよりも深い堀切様が


その先に再び曲輪が続きます。
ただ、草深くなってどんどん下っている様子なので、追跡はここまでにしました。

ザックリですが、見て来た所だけ図にしてみました。
北と南にあるとされる「出城」は見ていません。
写真が1枚もアップされていなかったので正直不安でしたが、大当たりの名城でした

◆歴史◆
北原氏の城でした
野首城の築城時期は不明です。
もともとは北原氏の城だったようです。
1558年に北原兼守が没し、その正室の父・伊東義祐が乗っ取りを図りました。
北原家中は親伊東派と反伊東派(親島津派)に分裂しました。
この中で反伊東派がさらに分裂したため、伊東義祐が北原氏の領地の大半を手に入れました。
1568年、米良重方に与えられました。
米良重方は伊東義祐の家臣で、須木の地頭でした。
これからしばらくは、米良重方が主役となるお城が続きます。
伊東氏は1480年代から、何度も飫肥を攻めていました。
そして1568年、ついに島津軍を降伏させて、和睦することとなりました。
この時に伊東方の代表として交渉に当たったのが、米良重方でした。
米良重方は島津家に飫肥を割譲させる事に成功し、伊東氏は悲願だった飫肥を手に入れました。
この時の功により、野首城が米良重方に与えられました。
1572年、新納伊豆守が城主となります。
この年、伊東義祐は飯野城の島津義弘を攻めました。
伊東軍は裏を突くつもりで加久藤城に奇襲を掛けました。
しかし、事前に情報が洩れており、島津軍の反撃に遭い大敗しました。
退却時に米良重方が殿軍を務めましたが、島津軍に狙撃され討死しました。
この戦いを木崎原の戦と呼び、伊東家崩壊の糸口となった戦いです。
島津軍300人が伊東軍3000人と破ったため、「九州の桶狭間」と呼ばれています。
米良氏の家督は米良重方の弟・米良矩重が継ぎましたが・・・
伊東義祐は、理由もなくその領地の一部を身内で山分けしてしまいました。
この時に野首城は伊東祐青の子・新納伊豆守に与えられました。
新納伊豆守は、天正遣欧少年使節の一人・伊東マンショの叔父だそうです。
これが後々遺恨を残し、伊東家崩壊の序章となります。
1576年、島津家の城となります。
米良矩重が島津軍に寝返り、小林城や須木城が島津家の城となりました。
米良矩重の持ち城の他、近隣の城が連鎖的に島津方に寝返るきっかけとなりました。
城主の新納伊豆守は撤退し、伊東義祐の豊後落ちに同行しています。
小林は川上忠兄が地頭に、須木は宮原景種が地頭となりました。
どちらかの城になったと思われます

1615年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎県小林市東方 GPSログダウンロードページ
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