2018/01/02
長尾城/鹿児島県霧島市
長尾城は、大隅半島の付け根にある岩壁ムキ出しのゴツイ山城です。訪問日は2017年12月30日です。
確か書きかけのブログがありましたが・・・
テツはアツイ内に討て!ということで、年末に行って来た所を次々紹介していきます。
こうやって、過去の在庫がドンドン溜まっていくんですよね・・・
でも!城キチはノリですからw

さて、城跡への討ち入りは、国道から分岐してすぐの所から登りました。
「北の沢伝いに登った」という方がおひとりだけいらっしゃいましたが・・・
某大聖典では、城の西側の陣之平という所で激しい戦いがあったと書かれています。
普通、城を巡る攻防戦って、城域の登城口側で行われますよね?
等高線見ても何だかこっちから行けそう!と、根拠不十分な自信に満ち溢れての登城でした。

この道の両側はこんな感じになっています。
一番上の写真で、すぐ近くに送電線の鉄塔が写っていました。
道端のフェンスには電流を流していると、ご丁寧な断り書きもあります。
・・・ということで、電力会社様が送電線をメンテナンスするための道のようです。

ここから先は、メンテンスの車もダメダメという感じです。
実際にここから先は、落ち葉が道に積もっています。
道はここから下り坂ですが・・・

左側に歩いて通れる道があります。

この道も数十メートル進むとこんな感じになりますが・・・

この角にコレがw

矢印の方向へは、ちゃんと進めるようになっています。

ただし、道は次第に不明瞭になっていきます。
ちゃんと戻って来れる自信の無い方は、早めに目印を付けた方が良いです。
・・・と、帰りに道を見失って山中を彷徨った私が申し上げます


やがては道と呼べるものも無くなり、何となく城の方角に向けて歩くようになります。

こうなればヤケのヤンパチだぁ!で、すぐ脇に登ってみました。

すると、綺麗に削平されています。
行きは気付きませんでしたが、どうやら既に曲輪に入っていたようです。
下の地図では、迷った箇所はガッツリ削って載せています。
しかし、西側に出っ張った迷子箇所は、曲輪や堀切が見られたので残しています。
ただ、誰も通った形跡の無く結果オーライで見た所なので、お勧めは出来ません。
城の西側には4つか5つの小さな曲輪が、堀切で区切られまっすぐ並んでいます。
どうやら、これがいわゆる「陣之平」と呼ばれる場所のようです。

削平された空間から城跡方向へ進むと、景気よく下る細尾根に出ました。
選択肢が無いので、嫌ですが下りましたw

その先の一番低い所です。
天然地形の細尾根の一番低い所なので、99%自然地形です。
でも城キチって、そうとわかっていても撮っちゃうんです


まぁでも、すぐ先には誰がどう見ても人工的な堀切様がいらっしゃいました


そのすぐ後ろがコレです。
どう見ても、前を土の壁で隠した虎口です。

この曲輪には、ちゃんと土塁が付けられていました


そして、この先には究極の選択を迫る船の舳先のような場所があります。
写真ではわかりませんが真正面は高い岩壁が聳え、右か左のどちらかにしか進めません。
こういうの私得意なんです!

・・・というのは嘘ですw
右へ進むと道は無く、崩落斜面を2回越えた後、こりゃダメだぁ~な風景になります。
木に隠れて写っていませんが、城跡方向は90度の岩の壁がデーンと立ちはだかっています。
それでも進んじゃった私って、やっぱりおバカさんです

「これムリwww」で撤退を決意した私ですが・・・
ほんの40分程ロスってさっきの分岐まで戻り、今度は左へ進みました。
本当に本当に、私ってどうかしています。
でも、入口では道が無いように見えた左側を進むと、道がどんどん斜面を登っています。
途中、岩の虎口が現れた時には、「おっしゃ、逝ける!」とガッツポーズでした

ということで、分岐の所にちょっとだけ爪痕を残して来ましたw

ここの岩の虎口は、よそでは見た事がない工夫が凝らされています。
それは、下からは行き止まりに見えることです。
ここ、先に進めるようには見えませんよね?

しかし登ってみると、岩の窪みの先で曲がり、進めるようになっています。
しかも、下から見た時には左右に「もしかしたら進めるかも?」的な風景があります。
進路を隠し、違う方向に敵をおびき寄せる仕掛けだと思われます。

少なくとも3か所はありました。

そんな仕掛け岩虎口?を抜けた先に・・・

ここ初の案内ですw
色々ツッコミたい気持ちはありますが、とりあえず小躍りです


その先も、岩を豪快にくり抜いた堀切の中を進みます。

ここから先は、右側に広い帯曲輪、左側に一段高い曲輪が続きます。

左側に最初に現れた堀切です。

登ってみると、ここには「西城跡」と書かれていました。
某大聖典の載っている曲輪にようやく辿り着けました。

西城と隣の曲輪は、大きな堀切で区切られています。

その次の堀切を登ると、右側の曲輪には物見台のような高まりがありました。

登ってみたのですが、ただ平らになっているだけでした。

この曲輪と次の曲輪との間にも、かなり大きな堀切があります。
この堀切は先で左に曲がっていて、枡形虎口のような形をしています。
この先からも登って来る所があったという事でしょうか・・・

一番奥の曲輪は、内部で三段になっていました。
その1つ1つはそれ程広くもなく、一番高い所の一番奥がこんな感じでした。
高い所ではありますが、かなり狭いので本丸ではなさそうです。
「大手口地」「西城跡」と案内があったので、本丸には絶対あると思ったのですが・・・
ここで、某大聖典に載っていたビョーキのゾウリムシみたいな図を見ました。
そこで本丸をスルーしていたことに気付きました。

さっき登って右側の曲輪に入った堀切ですが・・・
この堀切の左側こそが本丸だったのですw

ここには期待していた「本丸」の案内はありませんでしたが・・・
どの曲輪にも無かった、立派な土塁が付けられていました。
外から見ると「まさかここが?」的な造りでした。
虎口もそうでしたが、寄せ手に一瞬の迷いを生じさせる、かなり凝ったお城のようです。
◆歴史◆
敷根氏のお城でした。
敷根氏は、美濃国守護も務めた土岐氏の一族です。
系図等では、土岐国房が敷根村を与えられ、子の頼房が敷根姓を名乗ったと書かれています。
しかし、いろいろとツッコミ所満載だそうで、本当にそうなの?という内容かもしれません。
それはともかく・・・1184年に領地を与えられ、城を構えたのは事実です。
長尾城のあるここら辺は、勢力境で立ち回りの難しい場所でした。
というのも、島津氏と肝付氏の勢力にまんまと挟まれているからです。
南北朝時代には島津氏と畠山氏が争い、肝付氏も島津氏と組んだり争ったりしています。
時にはすぐ北西の島津家家老・本田氏までもが、島津家と争った時期もあります。
いつどの当主が誰に味方し、どう立ち回ったのかまではわかりませんが・・・
とにかく、混沌とした戦国時代を生き残りました。
ググってわかったのは、島津貴久の代に蒲生氏攻めに参加した事です。
その後、14代当主・敷根頼賀の時には、肝付氏に攻められたこともあるようです。
ということは、ある時期までは肝付氏に従っていたという事かもしれません。
その敷根氏も、1594年の太閤検地の後は垂水に移されました。
敷根氏の領地は石田三成の領地になったため、この時に廃城になったものと思われます。
敷根頼賀の孫・頼元は、文禄の役(1592-93)に出陣し、帰国途中で水死してしまいました。
跡継ぎがいないまま亡くなったため、御家断絶の危機となりましたが・・・
島津一門から養子が入ったため家名は続きました。
幕末には子孫である島津久芳が、荒れ果てた御先祖様のお墓を長尾城下にまとめたそうです。
所在地:鹿児島県霧島市国分敷根 GPSログダウンロードページ
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