2013/06/03
長沼城/東京都稲城市
稲城市2つめは長沼城です。こちらも造成により丘ごと無くなりました


▲城址碑周辺
その城跡に石碑があるというので訪ねました。橋の付け根にあるからすぐにわかる、、、と思ったのですが。丁度木陰になっていて、ちょっと探しましたo(・_・;= ;・_・)o

▲城址碑
城址碑にはちょっとした文章も書かれていますが・・・私には難しすぎてちと解りませんwそれよりこの城址碑、ツルツルで光を反射して撮りづらいです>_<
◆歴史◆
長沼城は、鎌倉時代はじめ頃に長沼五郎宗政が築いたと伝わります。長沼氏は武蔵七党の1つ・西党の一族・・・でしょうか?確かに地理的に土着の豪族ならそうなのかもしれません。
源頼朝お気に入り武将に、結城氏の祖・結城朝光が居ました。彼は下野国の有力者で小山氏の祖・小山政光の3男でした。その長兄が小山朝政、そして次兄が長沼宗政でした。
1183年に下野国であった野木宮合戦の戦勝報告を、負傷した父・政光の代わりに行っています。あまり有名ではない人物ですが、このことから当時かなりの大物でした。その人物と同時代に同姓同名を名乗るとしたら、それこそかなりの大物ですw
宗政は戦でかなりの働きを見せ、鎌倉時代初期には摂津守護・淡路守護となりました。ただ、荒い気性が災いしたのか、摂津守護職は後に改易されています。
1230年に嫡男・長沼時宗に譲った所領は、下野、淡路、武蔵、陸奥、美濃、美作、備後など。この武蔵の所領に築いた城が長沼城だったのではないかと思います。宗政は1240年に本拠地・下野国長沼荘(現・栃木県真岡市)で79歳で没しました。
宗政の没後は長沼氏は衰え始めたそうですが、本家は庶流の皆川氏が続きました。武蔵の長沼氏は記録が殆ど無く、その後の消息がつかめません。
城跡には江戸時代になってから報恩寺が建てられたそうです。『武蔵名勝図会』では報恩寺について「往昔長沼二郎大夫職任という武蔵七党の内の西の党よリ出たる人、当所に住す。」
と記しています。
どうやら戦国の乱世を乗り切り、家名を保ち続けたようです。西党の出とするのは、同姓同名の混同なのか、または養子を迎えたということなのでしょうか。ここら辺、私が間違いかもですが

その報恩寺も含め、城は亀山(きざん)という舌状台地にあったそうです。この台地、昭和に入って土砂採掘のため切り崩されました。そして昭和38年、多摩ニュータウン造成のため「帰らぬ城」となりました。
余談ですが、稲城市は大丸城、長沼城、小沢城などの「城」がその名の由来だそうです。
所在地:東京都稲城市東長沼
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