2017/12/15
坂戸城/新潟県南魚沼市
坂戸城は上田長尾氏の本拠だった山城です。訪問日は2015年8月2日です。

登城口にある鳥坂神社の前の駐車場に、坂戸城についての説明板があります。

拡大図
こんな感じです

字が小っさいので、ちょっと書き足してますが、拡大図は現場オリジナルです。
ここは城跡としてよりもトレッキングコースとして人気があり、ルートも沢山あります。
・・・比高450メートルで真夏なので、登るつもり無かったんですけどね。

鳥坂神社の前には、水堀の跡が残っています


とりあえず、麓に残っている御館跡を見に行きます。
こちらは城坂コースの入口で、この先に御館跡の石垣があります


山に近づいて行くと、道端に石碑が建っています。
麓の平坦地に家臣団の住居が建ち並んでいたんですね。
一般的には「根小屋」と呼ばれてると思いますけどw

さらに進むと、遠目には土塁に見えましたが、石が沢山積まれていました。
近づいて見ると、立て札にはこの石を使って将来石垣を復元するんだと書かれていました。
これはまたいつか見に来なければイケマセンね!

そしてこの溝!
周辺に畑とか無いので、もうアレしか無いですよね?

その奥に、坂戸城の城址碑があります。
石碑自体は特にどこにでもある感じのモノですが・・・
何となく、絵になります


その裏には、今度はちゃんと組まれた石垣が。
土の城ばかり見て回っていると、たまに見る石垣が新鮮に映ります。

そして、「上杉景勝・直江兼続生誕之地」の石碑です

よし!これでここの登城は完了!の予定でしたが・・・

ちらっと見えたこの山が、この城の本体です。
な~んて思ったら、気が変わっちゃいました。

ということで、そのまま城坂コースを進みます。
山に登り始めると、道は途端にこんな感じになります。
麓の御館まで程ではありませんが、それでも山城の登城路としては立派です。

途中で、新潟ではよく見かけるタヌキさんに遭遇しました。
口にくわえているのはヤマカガシのようです。
生きているヤツを仕留める度胸があるようには思えませんが・・・
カモシカさんと同じく鈍感で、鈴を鳴らしていても近くに来るまで気付いてくれません。
おかげでこんな写真撮れるんですけどw

9合目を過ぎると平坦な所に出ました。
桃ノ木平です。

そして、間もなく神社が見えて来ました。
ここが坂戸城の主郭である実城です。
城址碑のある御館からの所要時間は50分でした。

さすがに有名観光地だけあって、人が沢山居ました。
この中に城キチが居るかどうか?ですけどw

ということで、眺めは抜群にいいです。

神社の裏側に回ると、こんな案内があります。
大城・小城ですか・・・行かねば!
ここまで来ておきながら、行かないという選択肢はありません(`・ω・´)

その先へ進んで見晴らしの良い場所に来ると・・・
細尾根の向こうにちょっとした高まりが!

細尾根の道なので、当然、堀切がいくつもあります


振り返って見た実城です。
神社の周りは結構平坦だと思っていたのですが・・・
離れて見ると、普通に山のテッペンです。

そして、細尾根からちょっと広くなった所が小城です。
見て来た自分ではただの通過点だと思っていましたが・・・
それでも「とりあえず撮り」が役に立ちました^^

さらにその先にある大城です。
「大」というだけあって、かなり広いです。
実城と同じで、遠目にはとんがった山に見えたんですけどね!

ここは特に眺めが良いという訳でもないので、山キチさんや観光客はあまり来ません。
実城の神社の周りには沢山人が居たのですが・・・
こちらへ来る途中は、1人も会いませんでした。
まぁでも、ちょっとした気の迷いで登っちゃった城キチなら、ここは是非見ておきましょう


下りは登りと別ルートが見たいと思い、薬師尾根ルートから下りました。
下り切った所が、登城口の右脇にある鳥坂神社です。
こちらもよく紹介されているルートですが・・・
ほぼまっすぐのルートなので、大部分が階段でした。
有名所で例えると、福岡の古処山城の林道終点から登る沢登りコースのような感じです。
・・・新潟と福岡じゃぁ、両方登ってる人なんてあんまり居ませんよね

古処山城は、今度の年末に4年ぶりにリベンジしますけどw
それと、比高450メートル超と普段登らない高さなので、久しぶりな出来事がありました。
いつもは比高200メートルで30分かかる所を、450メートルを50分で登りました。
かなりのハイペースです。
この後にも沢山の城跡を見て回ろうと予定を組んだので、焦っていたのでしょうか。
大城まで見て来て実城の神社に戻り、ひと息つく間も無く山を下りたのでした。
そこで傾斜のキツイ階段をひたすら下る内に、ちょっと軽~く眩暈がしてきました。
これは貧血かな?ちょっと酸素が足りてないのかな?なんて、大きく息を吸うと・・・
なんだか、手に力がぎゅっと入りますが、コントロール出来ない感じ・・・
一度だけ経験していたのでわかったのですが、過呼吸でした

経験したことがあり対処方法を知っていたので、途中の平坦な所でしばらく安静にしました。
途中で抜かしたおじい様に心配された時には、ちょっとショックでしたがw
◆歴史◆
南朝方の新田氏が築いたとする説があります。
築城年代は不明ですが、室町時代はじめ頃に新田氏により築かれたとする説があります。
新田氏は南朝方の中心だった新田義貞が有名ですが、魚沼周辺にも勢力がありました。
新田義貞が越前で討死した後、北朝方の上杉氏により新田氏は越後を追われました。
上田長尾氏の本拠でした。
1341年に上杉憲顕が越後守護になると、長尾景忠が越後守護代として越後を平定しました。
長尾景忠の子孫は各地で守護代となり、上杉氏の第一の家臣として活躍します。
上田荘には長尾景晴または長尾長景が入りましたが、関東管領・山内上杉家の家臣でした。
関東管領の山内上杉家は、越後守護の上杉家とはお互いに養子を出し合った関係でした。
そのため、越後国内には関東管領の領地も少なからずあったようです。
長尾政景は長尾為景と対立していました。
応仁の乱の後頃から、越後では守護代の長尾為景が力を持ち始めました。
そして、守護・上杉氏を圧倒し、越後支配の実権を握ろうとしました。
象徴的な出来事が、1507年に越後守護・上杉房能を自害時追い込んだクーデターでした。
長尾為景はその3年後、越後に攻め込んだ上杉房能の兄で関東管領・上杉顕定も討ち取りました。
上田長尾氏当主の長尾政景は守護方として、長尾為景と戦っていました。
その後も越後守護家の一族から上杉定実が越後守護を継ぎましたが、完全に傀儡となりました。
上杉定実は、一族の上条定憲や長尾政景らを中心に長尾為景に抵抗を続けましたが・・・
1536年に長尾為景を隠居に追い込んだものの、上杉定実は実権を取り返せませんでした。
その後、長尾為景から家督を継いだ長尾晴景とその弟・長尾景虎が争うようになりました。
それは、長尾晴景が病弱なのに対し、長尾景虎は10代ながら猛将の片鱗を見せていたからです。
本人同士が争ったというより、その取り巻き同士が争ったんですね。
長尾政景は長尾晴景を推したため、長尾景虎が家督を継いだ後も抵抗を続けました。
そのため、1551年に討伐され降伏。
この和睦のため、長尾景虎の姉・仙桃院を正室に迎えました。
御館の乱で後北条軍に攻められました。
長尾政景と仙桃院の子が、上杉謙信の養子となった上杉景勝です。
1564年に長尾政景が謎の死を遂げた後、上田長尾家中の不安を鎮めるための策だったようです。
1578年に上杉謙信が没すると、その上杉景勝ともう一人の養子・上杉景虎が争い始めました。
上杉景虎は北条氏政の弟で、同盟の証として上杉謙信の養子となっていました。
上杉謙信がどちらが家督を継ぐのか決めずに没したため、争いとなりました。
乱の序盤は、実家である後北条氏と武田勝頼を味方につけた上杉景虎が優勢でした。
上野国から越後に攻め入った後北条軍は、荒戸城や樺沢城を攻め落としました。
そして、上杉景勝の実家の本拠である坂戸城を激しく攻めました。
しかし、坂戸城は後北条軍の攻撃を凌ぎ、やがて上杉景勝と上杉景虎が和睦しました。
これは、上杉景勝に買収された武田勝頼が、越後で軍勢を率いながら仲介したためでした。
やがて秋になると、徳川家康が武田領に攻め込んだため武田軍が撤退。
さらに、三国峠に雪が降り始めると、樺沢城に駐屯していた後北条軍も関東へ引き上げました。
すると、上杉景勝は和睦を破棄し、雪が消えない間に上杉景虎を自害に追い込みました。
廃城までザックリ
1598年、上杉景虎が会津家移され、堀秀治が越後の主となりました。
坂戸城には、堀秀治の一族である家老の堀直寄が城主となりました。
1610年、堀家の家老だった兄・堀直清との争いがもとで、主・堀忠俊が改易されました。
これは堀直清が一向宗の僧侶を争論の末殺害し、さらに弾圧を加えたことに始まります。
大規模な一揆になりかねないと危惧した堀直寄が、江戸幕府へ訴えた事がきっかけでした。
この結果、幼主・堀忠俊は家中監督不行き届きを理由に改易。
兄・堀直清も改易されましたが、堀直寄は1万石の減封に留まり、信濃国飯山へ移されました。
この時に坂戸城は廃城となりました。
所在地:新潟県南魚沼市坂戸
新潟県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
無題
やっぱり行かないとダメですね。
2017/12/16 17:42 by 御城学 URL 編集
Re:無題
ここは登城と言うよりほぼ登山なので、気が向いたらでよろしいかと思います。
2017/12/16 19:21 by なぽ URL 編集