2017/12/10
茶臼山城/新潟県上越市
茶臼山城はため池の北側に本城と砦がありました。訪問日は2015年8月3日です。

ここに来るチョット前に道に迷ったりしましたが・・・
なんとかため池に辿り着きました。
立派な駐車場がありますが、例によって駐車車両は私のバイクだけでしたw
すぐ近くに図の描かれた大きな板が立っていたので見に行くと・・・

図は立ち位置から見やすいよう、南北逆になっています。
私が目指して来たのは「茶臼山城」ですが、左の小さい方に「茶臼山」と書かれています。
茶臼山「じゃない方」に土塁や空堀が描かれています。

こっちが茶臼山で

こっちが茶臼山じゃない方です

こうなるともう「土塁」や「堀」と書かれた方に吸い寄せられます。
城跡は名前じゃありませんからw

歩けそうな道はそのまま山裾を避けるように曲がってしまったので、土手に上がります。
なぜ?って、、、城キチの本能です。
初めての場所でも、体が勝手に動いちゃいます。
「この奥にゼッタイ何かある」なんて・・・

ほらwww

歩道は草で覆われず見えており、真夏でもまぁまぁ歩けました。

階段を真っすぐ登り切った所がココです。
山城にしてはアッサリ本丸っぽいので、どうやらこの道は後から付けられたもののようです。
本丸は日当たりが良いものの、草で埋まってはいません。
時々、草刈りなどのお手入れはされているようです。

拡大図
奥に写っている図をパクリます

こうやって見ると、状況的にどう見てもココが主郭ですが・・・
さらにその西側に沢山沢山曲輪がありそうです。

主郭の一番奥にある土塁です。
新潟で土塁ちゃんと見た記憶ありませんでしたが・・・
ここの様子から、元々この高さのようです。
長野県でもそうでしたが、雪国って土塁が低い傾向があるのでしょうか。

図では土塁の裏にシュッとしたものが描かれていました。
そいつを見てやろうと土塁に登ると・・・
見事な堀切がありました


真夏ですが、勇気を振り絞って下りてみました。
本当は勇気なんて振り絞ってなくって、本能のまま動いちゃいました。
やっぱり城跡来たら、堀底から見上げなきゃ!ですね。
ただし、ここから先はずっとこんな感じっぽかったので、探索は終わりにしました。
今こうやって改めて図を眺めていると・・・
北側の道から堀切が下った竪堀が3本とも見えそうな感じがします。
さらに、北西から入る道っぽいのが描かれているので、反対側が見れたかも。
そしてそして、一番大きな見落としが

東側にある茶臼山も砦跡で、実は一番の見所が!
茶臼山城には井戸にまつわる悲劇が伝わっていました。
その井戸が茶臼山の方にあったのです。
しかも、そっちにも堀切があるそうで・・・
近所メーワクでなければ、うわぁぁぁって叫んでみたい気分ですw
◆歴史◆
南北朝時代からあったようです。
南北朝時代は南朝方の河野弾正通信の城だったそうです。
越後で・・・河野氏・・・?
しかも名前に「通」の字があるということは、伊予の河野氏とつながりがある・・・?
ちょっと混乱したので色々ググってみるも、成果なし。
もう無いかな?と思ったら、ちょっとだけ出て来ました。
・・・長くなりますよ

越後に河野氏は来ていました。
それは鎌倉時代の末頃で、河野氏であった家督争いが原因です。
その祖は河野通忠で、『蒙古襲来図』では河野家の嫡男として描かれていた人物です。
そのまま行けば、伊予守護・河野家を継ぐはずの人物でした。
しかし、父・河野通有の死後、異母弟・河野通盛と争って敗れ、伊予を去りました。
そのため、以後に記された河野家の記録では、家督を狙い家中を乱した人物と書かれています。
その後、河野通忠の子・通貞が、恩賞として越後国魚沼郡上田荘小栗山郷を得ました。
ここから、河野氏本来の嫡流は越後で続くこととなりました。
じゃぁ、それからあまり年月の経っていない南北朝時代になぜココに居た?となりますが・・・
「魚沼郡上田荘」でググっても、河野氏の事はサッパリ出て来ません。
南北朝時代には、北朝方の上杉氏が支配していたことになっています。
そしてココら辺はと言えば、近くの直峰城に南朝方の大物・風間信昭が居ました。
風間信昭は北陸から関東にかけて、南朝方として広く活動してきた人物です。
北朝方に魚沼郡を追われた南朝方の河野氏が頼りそうな存在です。
・・・ぜ~んぶ想像ですけど

戦国時代は手島氏の城でした。
手島氏もググってもあんまり出て来ませんが、上杉憲政に従って越後に来たようです。
上杉憲政は関東管領でしたが、後北条氏に次第に領地を奪われ上野国から逃れてきました。
ハッキリした年は特定されませんが、1550年代前半と思われます。
この頃は長尾景虎が家督を継いだ後、守護・上杉定実の死により越後守護にもなった頃です。
長尾晴景推しだった長尾政景はこれに不満を抱き、乱を起こしましたが鎮圧された頃です。
そのほかにも、旧守護方の家臣団と旧長尾方の家臣団の不和があり、争いが絶えませんでした。
新参者が領地を与えられるとすれば、争いに敗れて領地を没収された家があるはずです。
それが誰だったのかは???ですが

1578年、上杉謙信が没し、お館の乱が起きました。
手島清蔵景行は主・上杉憲政とともに、上杉景虎派でした。
・・・長尾景虎と上杉景虎は別人です。
ダイジョーブですよね?
上杉憲政は上杉景虎とともに御館に籠り、上杉景勝の攻撃に耐えていました。
1579年、次第に上杉景勝方が優勢となり、茶臼山城も上杉景勝方により包囲されました。
城主・手島清蔵景行はもはやこれまでと、城を脱出する事を決意します。
姫を連れての逃避行は困難が予想されました。
また、敵と言えど姫は殺さないだろうという事で、姫を城に残す決断をします。
そして、手島清蔵景行は少数で城を抜け出し、柿崎浜から脱出することに成功しました。
しかし、姫は絶望のあまり、井戸に身を投げて自害してしまいました。
その井戸が、東側の砦に残っています。
姫の悲話は地元に残り、1987年に手島清蔵景行の子孫により慰霊碑が建てられました。
黒金摂津守が城主となりました。
黒金摂津守がどのような人物だったのかは?ですが・・・
上杉景勝の側近に、黒金景信という人物はいました。
黒金氏は上田衆に属しており、本貫地は魚沼の辺りだったと思われます。
なので、城主として名の伝わる黒金摂津守は、状況的にこの後に城主になったと思われます。
その後の事がサッパリわかりませんが、1598年に上杉景勝が会津へ移りました。
この時に多くの家臣が会津へ移っており、黒金摂津守も従ったと思われます。
所在地:新潟県上越市頚城区大蒲生田
新潟県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント