2017/12/09
直峰城/新潟県上越市
直峰城は山城ですが、キチンと整備されているので真夏でもokでした。訪問日は2015年8月2日です。

ちゃんと整備されているせいか、案内が出ています。
案内の無い城跡ばかり行ってると、こういうのがたまらなく嬉しかったりします


そして、その突き当りには立派な駐車場。
有名な山キチ聖地の登山口並に広くて立派です


駐車場奥に写っている公園の案内図です。
これを見ても、どこが城の何なのかサッパリわかりません


拡大図
駐車場奥の小屋に掛かっている城の案内図を拝借致しました

公園の案内図とは対照的で、こっち1枚で十分な気がします。
世間的には少数派なのでしょうけど


登城路はこんな感じです。
階段が整備され、草も散策路ギリギリじゃなくかなり余裕をもって刈られています。
これなら、真夏に訪ねても安心ですね


登り始めて2分で、「伝 上杉藤五郎房友殿御跡」と書かれて標柱が現れました。
「殿御」って何だろう?ってググってみると、女性が男性を敬って使う言葉だそうです。
・・・察するに、「御殿」の誤りでしょうか?
草が茂って狭く見えますが、もうちょっと広かったんじゃないか?と思います。
気になってググってみたのですが、上杉房友がどのような人物だったのかヒットせず・・・
ここから先に更に「〇〇屋敷跡」なんて出て来るので、身分は決して高くなかったようです。
それでも上杉姓で一番下?なんて、ちょっと混乱気味です。

上杉藤五郎の屋敷前には、こんな感じの池があります。
山城の生命線である水の手でしょうか。
そこを任されるとなると、一番信頼出来る人物でなければなりません。
・・・そういう事にしておきます。

さらに登ります♪

上杉藤五郎の屋敷跡から2分登ると、今度は「堀田隼人正顕殿御跡」が現れます。
「堀田隼人」でググると、小説「赤穂浪士」の主人公なんて出て来ました。
越後に居たの?って、真に受けないで下さいねw
いらない情報ばかりヒットするので、「堀田正顕」でググると今度は反応ナッシング。
あまり史料には登場しない人物という事ですね。
それでも、城の中に屋敷を構えるという事は、当時ココではそれなりの人物だったハズです。
・・・そういう事にしておきます。

登城路はさらに続きます♪

堀田隼人の屋敷跡から登ること割とすぐに、今度は「家老 宅馬若狭守殿御跡」が現れました。
「殿御」ってここいらの方言なのだと思う事にしておきます。
家老という事は、城内ではかなりの地位ですよね?
今度こそ!とググってみますが、ヒットなし

家老で何も出て来なければ、それ以下の人物など分かる筈ないですね・・・
ちょっとがっかりです。
実際に歩いて登るよりも、こうやって書きながらウダウダしてる時間の方が遥かに長いですw

家老の屋敷跡からも、まだまだ登城路は続きます。
きっと家老は足腰のしっかりした人物だったんですね!

家老の屋敷跡から4分程登り、ようやく二の丸に着きました。
登城口からは8分です。
これまで見た屋敷跡とは比べ物にならない位の広さです。
・・・比べちゃイケナイのかもしれませんがw

さらに本丸方向へ進むと、今度は蔵の跡があります。
こちらも広いですね

山城なので、日頃からちょいちょい運んで沢山貯めておくんでしょう。

本丸のすぐ下です。
最後の防衛線だけあって、城塁が高くすんなりとは登れなさそうです。

その真ん中にかなり大きな堀切があります

これまではただ段があるだけでしたが、山城っぽくなってきました!

ラストスパート!

登城口から15分で、本丸到着です。
かなり広いですね!
毎度の事ながら、ここ本当に山の上?なんて感じます。

本丸には、説明板や標柱、石碑など色々あります


モニュメント好きには嬉しい所ですね!
◆歴史◆
風間信昭により築かれたと考えられています。
風間信昭は信濃国出身で、南北朝時代には南朝方として活動しました。
新田義貞とともに南朝方のエース級で、北陸や信濃、関東にも出陣しています。
1352年の軍忠状を最後に史料に登場しなくなり、その後は子の風間長頼が継いだようです。
風間長頼はその3年後、北朝方の軍忠状にその名が記されています。
戦国時代は長尾氏の城だったと考えられています。
その後の城主等がわかりません。
長尾為景の家臣・吉田英忠が16世紀前半に城主を務めていました。
上杉謙信が関東へ出陣する際は、ここが通り道となり城に泊まったことがあるそうです。
1578年に始まった御館の乱では、上杉景勝方の武将が直峰城を守っていました。
そしてその後、直江兼続の父・樋口兼豊が城主となっています。
1598年、堀秀治の一族・堀光親が城主となりました。
上杉景勝が会津へ移され、代わって堀秀治が越後の主となりました。
直峰城にはその一族・堀光親が城主として入りました。
ただ、どんな人物だったのかググっても出て来ず???です。
家老が堀姓なので、上杉姓の人物が下の方に住んでいたのはこの頃かもしれません。
1606年、堀秀治が31歳で没すると、堀家は一気に衰えを見せます。
徳川家康による外様潰しの標的となり、1610年、家老どうしの争いを理由に改易されました。
直峰城はこの時に廃城となりました。
所在地:新潟県上越市安塚町安塚(安塚町森林公園)
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