2017/12/07
箕冠城/新潟県上越市
箕冠城(みかぶりじょう)も、高田平野を南から見下ろす山城です。訪問日は2015年8月2日です。

箕冠城は南から北へ伸びる台地の先端にあります。
そのため南側からの比高はそれ程なく、車ですぐ近くまで行けます。
その入口にこの案内があります


城跡のすぐ下にある駐車場です。
かなり広いです


拡大図
その入口にある案内図です。
もちろんイ・タ・ダ・キます


案内図に描かれている「池」は、箕冠清水という名前だそうです。
「池」ってあんまりですw
で、その「池」から本丸方向を見上げた所です。
しっかりくっきりと段々の曲輪が見えます。
上がる通路も幅が狭められていて、守りが堅そうに見えます


チョット上がった所には、説明板と城址碑があります。
一番上の本丸でいいような気もしますが。
どこに何を設置するのか、どうやって決めるのか気になります。

二の丸の端にある横堀です。
この幅、この深さなので、本当に横堀?なんて思いますが・・・
きっとエライ先生がそのようにおっしゃった、のかもしれません。
堀の脇にあるのは土塁に見えますが城塁です。

本丸に上がる虎口です。
廃城から年月が経っているせいか、段々の曲輪がある以外は鋭さに欠けるような気が…
往時は土ではなく、柵などで守りを固めていたのでしょうか。

最上部にある本丸です。
かなり広いのですが、周りがスッキリしています。

そこにある城址碑です。
ツルツル高級素材なので、逆光になると頑張りにも限界が

グルグル回りながら、文字の部分に光が当たる角度を探しました。

まぁ、でも、眺めは抜群にイイです

高田平野を見下ろす城が結構多いです。
この高田平野の北端にあるのが春日山城です。
越後の中枢だけあって、十重二十重の警備体制だったんですね!
◆歴史◆
大熊氏の城でした。
築城年代は不明ですが、戦国時代まで大熊氏の城でした。
大熊氏は信濃国高井郡の出身で、応仁の乱の後ぐらいに越後に移って来たようです。
はじめに越後に来た大熊朝忠は越後守護・上杉房能に仕えました。
その大熊朝忠が戦死したのが、1504年に扇谷上杉家の河越城を攻めた時でした。
大熊政秀は守護・上杉家と守護代・長尾家が激しく争いました
次の当主・大熊政秀の時代は、守護・上杉房能と守護代・長尾為景が激しく争いました。
大熊氏は元々は関東管領・山内上杉家の被官で、越後国内の領地の管理を任されていました。
この時の関東管領・上杉顕定は越後守護家出身で、越後守護・上杉能房はその弟でした。
この両者の戦いでは、大熊政秀は関東管領からの援軍として越後守護を助けたようです。
しかし、長尾為景は1507年に上杉能房を自害に追い込み、1510年には上杉顕定を討ちました。
実力で越後のトップに昇り詰めた長尾為景は、上杉定実を傀儡の守護として実権を握りました。
大熊政秀は長尾為景に従いましたが、1530年代に上条氏が挙兵すると味方しています。
1548年、長尾為景の子・晴景と景虎(上杉謙信)が争いました。
この時、傀儡ではありましたが、守護の上杉定実は長尾景虎側に味方しました。
上杉定実はこの2年後に跡継ぎの無いまま病死。
大熊政秀はその意志を継いで、長尾景虎に仕えるようになりました。
大熊朝秀により大改修が加えられました。
1548年に長尾景虎が家督を継いだ時、その擁立に功のあった大熊朝秀は加増されました。
その時の恩賞を元手に、本拠としていた箕冠城を大幅に拡張したそうです。
大熊朝秀は計算に明るい家系でありながら武勇にも秀で、活躍しましたが・・・
1554年、大熊朝秀は下平修理亮との間で領地争いを起こしました。
これは単純な領地の紛争ではなく、旧守護家臣団と旧長尾家臣団の派閥争いでもありました。
1556年、家臣団の争いに嫌気が差した長尾景虎は、ある日突然出奔しました。
すると、旧長尾家臣団側の本庄実仍、庄田定資が箕冠城を攻める動きを見せました。
大熊朝秀はこの動きを察し、城を捨てて武田信玄の元へ逃れました。
武田家臣となった大熊朝秀はそこでも活躍し、最後は武田勝頼と運命を共にしました。
大熊朝秀が去った後の箕冠城の動向は、史料には登場しないため不明です。
所在地:新潟県上越市板倉区菰立(箕冠城跡公園)
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