2017/12/03
小田野城/山梨市
山梨シリーズのラストは小田野城です。訪問日は2015年4月26日です。

登城口は、普門寺の裏にあります。
・・・最初に書いちゃうと、写真は沢山載せてますが、凄い遺構はありません


本堂を正面から見て左へ進むと、こんな感じの所があります。
ここを上がります。

すると、上に獣避けのフェンスが見えます。
ちょっとだけ草深いですが、掻き分けて進みます。

所々にこんな感じで扉があります。
獣避けなので、人間なら簡単に開けて入ることが出来ます。
・・・開けたらちゃんと閉めましょうね!

扉はいくつかありますが、その中の1つにこれがあります。
これが無い所から入ったら、とりあえず高い所目指して真っすぐ登って下さいw

当たりの扉から入ると、なんとなく人が歩いたっぽいものが見えます。
ここから入って行く所なんてみんな同じなので、素直に踏み跡を辿って行きます。

すると、こんな感じの尾根に出ます。
道無き道が見えますよね?
見えませんか?
・・・そうですか


その道無き道をトコトコ登っていくと、扉から11分で虎口っぽいのが現れます。

そのすぐ先に、石塔が2つ並んであります。
ちょっと平らになっているので、ここも曲輪だったのでしょうか。

見上げると、まだまだ道無き道が続いています。

道無き道を真正面から見ても大した事なさそうに見えますが・・・
真横を見るとこんな感じです。
結構キツイですw

扉から19分の所で、再び平らな場所にでます。
今度は虎口っぽいのはありません。

上を見ると、さっき見たのと同じような光景が待っていました。

更に登ると、今度は岩がゴツゴツしてきます。

そのすぐ上が何となく頂上っぽい感じ。
俄然力が沸いて来てラストスパートヾ(*´∀`*)ノ

上がった所を振り返ると、ここも何となくですが虎口があった???感じです。
扉からここまでで30分です。

岩場に上がった所で見えちゃいましたが・・・
まだまだ続きがあります


そして、また頂上っぽい光景が現れます。
・・・もうぬか喜びはしないゾなんて思いながら、淡々と登ります。

上がった所から振り返ると、岩が天然の城門みたいになっています


でも、やっぱりまだ続きがありましたw

ただ、それまでと違うのは、地面の窪みが深くなったことです。
どうやら城の主要部に近づいて来たようです^^

再び見慣れた光景が見えてきました。
またまた続きが見えても驚かないゾと、決意を新たに登ります。

今度は続きが見えません。
あれ?と拍子抜けしますが・・・

扉から33分で、ついに登り切ったようですwww
ただ、ここまでに見たのが、虎口?っぽいのと、堀跡?っぽい窪みだけ。
さらに、山頂の削平地も大した広さはありません。
これで終わり?なんて思いましたが・・・

北側に細い稜線が続いていますが、その地面が何だかボコボコです。

こんな感じに。
堀切様が、いくつもいくつも続いています


細い稜線を辿り、扉から37分で再び開けた場所に出ました。
何となくですが、ここが主郭で、山頂が物見台でしょうか。
籠城するタイプの城ではなく、烽火台のような感じがしました。
◆歴史◆
安田義定が築いたとする説があります
安田義定は甲斐源氏の祖・源清光の子または弟とされる人物です。
甲斐では山梨郡安田郷(山梨市)を拠点としていました。
その後、平家討伐で功を挙げ、遠江国の守護となっています。
しかし、甲斐源氏が遠江・駿河・信濃・甲斐・武蔵と勢力を拡大すると・・・
源頼朝は危機感を抱きました。
というのも、甲斐源氏は家臣ではなく、対等な立場の同盟者だったからです。
利害が対立すれば、とても手強い強敵となるため、源頼朝は甲斐源氏の切り崩しを謀りました。
列記すると・・・
1184年、一条忠類が鎌倉で暗殺される
1185年、秋山光朝が討伐され自害
1188年、武田有義が鎌倉で衆人環視のもと源頼朝に面罵され求心力を失う
1190年、板垣兼信が隠岐島へ遠流
などなど。
安田義定は1193年に嫡男・義資が院の女房に艶書を送ったとして処刑されました。
この時に安田義定も領地を没収され、翌1194年、謀反の疑いがあるとして梟首されました。
安田義定が遠江守護補任が1180年なので、築城したとすればそれ以前という事になります。
1465年、跡部景家がココで自害しました。
跡部景家は甲斐守護代で、跡部明海の子です。
跡部明海・景家父子は、1418年に武田信元が甲斐守護となった際に甲斐にやって来ました。
1417年にあった上杉禅秀の乱で、甲斐守護・武田信満が禅秀に味方したため討伐されました。
すると、武田氏嫡流の一族がそろって甲斐を出て高野山に逃れ、皆出家してしまいました。
そのため、甲斐では守護不在となる事態が発生しました。
・・・う~ん、長くなりそw
そんな事態を迎え、鎌倉公方の足利持氏は、武田一族の逸見有直を甲斐守護にしようとします。
しかし、鎌倉公方と対立していた室町幕府は、武田氏の中から甲斐守護を出そうと奔走します。
はじめに任命したのが武田信満の弟・穴山満春で、1418年に甲斐守護に任命しました。
この時に信濃の小笠原政康に協力するよう命じ、補佐役としてつけられたのが跡部父子でした。
跡部父子は小笠原氏の一族です。
武田氏の守護は逸見氏など反武田勢力と争い続け・・・
守護が戦死しては、上方に逃れた一族を連れ戻して甲斐守護にするという事態が続きました。
そんな中、跡部父子と対立した武田信長が上総へ逃れ、真里谷氏の祖になったりしています。
その後、武田信重が足利持氏討伐直前に守護となり、幕府軍の一翼として参加。
1450年に武田信重が没すると、武田信守が守護を継ぎました。
この頃から跡部明海・景家父子による専横が始まり、武田信守は実権の無い傀儡でした。
武田信守は失意のまま守護就任から5年で世を去り、9歳の武田信昌が守護となります。
その武田信昌が成長すると、跡部父子と争うようになりました。
序盤は跡部父子が圧倒しましたが・・・
1464年に跡部明海が没すると、形成が逆転しました。
そして1465年、武田軍により追い詰められ、ココで跡部景家が自害しました。
烽火台として使われた、かもしれません。
城としての構造が古いので、おそらく跡部氏滅亡により廃城になったと思われます。
ただ、甲府市の湯村山城にあった図では、この辺りにも烽火台が描かれていました。
地理的にも信濃国佐久郡に通じる道があり、武田信玄は浄古寺城を築いています。
もしかしたら、烽火台として使われたかもしれませんね。
所在地:山梨市牧丘町西保下
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