2017/12/03
武田信春館/山梨県甲州市
甲州市にある慈徳院というお寺が、武田信春の館跡だと伝わります。訪問日は2014年11月15日です。

お寺入口は南側にあります。

ここに武田信春公館跡の石碑があります。

このお寺には、武田信春公のお墓もあります。
「も」じゃないですね


見た感じ遺構は何も無さそうな所ですが、ついついウロウロしてしまいます。
そうしたら、北側にこれがありました。
石碑には「千矢の堀跡」と彫られています。
その脇には「千野館東側の堀で 優良な矢竹となる 竹が茂っていた」とも彫られています。
しかし、この堀跡はがっつりコンクリートで固められてしまっています。
それ以前に、周りのフェンスが高い上に視界を遮っています。
◆歴史◆
甲斐武田家12代当主・武田信春の館があったとされます。
武田信春は南北朝時代終わり頃の人物で、連方屋敷で紹介した武田信武の孫です。
武田信武は元々は安芸国の守護で、足利尊氏に従って中国地方で活躍しました。
甲斐は武田政義が守護でしたが、南朝方に寝返って北朝方の守護代と戦っていました。
1343年に武田政義が戦死すると、足利尊氏は武田信武を甲斐守護に任命。
実際にはその嫡男・武田信成が先に甲斐に来て、足利軍の一翼を担いました。
武田信春も父とともに甲斐へ移り、南朝方討伐軍を率いて転戦しました。
1394年にその父が没すると、武田家当主となり甲斐守護を継ぎました。
南朝方勢力を駆逐した後の事があまり書かれていないので、平穏だったのでしょうか。
しかし、武田信春は1413年、乱により館を攻め落とされ、萩原山へ逃れています。
そして、同年内にその地で没しています。
武田家と甲斐守護はその子・武田信満が継いでいます。
この1413年にあった「乱」というのが超気になりますが・・・
ググったら、割とアッサリ出て来ました。
それは館跡にある慈徳院の縁起です。
慈徳院は武田信春の菩提寺ですが、これは武田信春の遺言によりそうなったのだそうです。
その縁起によると、1413年2月に逸見氏が乱を起こし千野の館(ここ)が陥落。
武田信春は萩原山に逃れたものの、同年10月に同地で没した(戦死した?)そうです。
この「逸見氏」が誰なのか明記されていません。
可能性が高いのが、逸見有直です。
1417年に起きた上杉禅秀の乱後、逸見有直が甲斐守護になろうと武田家と争ったからです。
逸見姓は武田家の祖・武田信義の双子の兄が名乗りましたが、直系は続いてはいません。
私は甲斐源氏の惣領を狙う武田一族が、本家と張り合う時に名乗る姓だと勝手に思っています。
武田家が上杉禅秀に味方していたので、敗れた武田一族は揃って高野山へ逃れていました。
そのため、甲斐守護は不在となっており、逸見有直がその座を狙ったのは自然な事でした。
逸見有直は、当時甲斐を管轄下に収めていた鎌倉公方・足利持氏のお気に入りだったようです。
足利持氏と対立していた室町幕府は、武田信春の次男・穴山満春を次の甲斐守護にしました。
武田姓に復した穴山満春は武田信元と名を改め、逸見有直と争っています。
所在地:山梨県甲州市塩山千野(慈徳院)
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