2017/12/02
連方屋敷/山梨市
連方屋敷跡は、住宅街のド真ん中にあります。訪問日は2014年11月15日です。

東山梨駅のすぐ東に、かなり広大な空き地があります。
・・・空き地ではなく、屋敷跡でした

駅側から見ると、いきなりこんな感じで現れます。
芝生で綺麗に覆われていますが、地表の感じから形はいじられていなさそうです


南側の堀と土塁です。
迫力を出すために、望遠側で圧縮効果を狙いました。
視界を遮られない長い土塁や堀は、こんな感じで撮るのが好きです^^
ジャンルは違いますが、汽車ポッポもこうやって撮ると迫力がでます

城跡でこんな撮り方出来る所って、かなり限られますけど・・・

西側の堀と土塁です。
コンパクトデジカメでそのまま広角側で撮ると、こんな感じになります。
肉眼よりも広く見えるので、これはこれで距離感が出ます。
出来れば近い所にもうちょっと寄ると、より遠近感が強まりますけど


なんて、撮り方なんてどーでもいいですねw
実際の見た目、感じ方に近いイメージで撮れればいいんです♪
南側の土塁の東端に登って、土塁全体が見えるように撮りました。
住宅街のド真ん中ですが、かなり広く保存されています。
色んな方々の尽力により、城キチは心の栄養をもらっています。
ありがとうございます

◆歴史◆
南北朝時代の有力者の館だったようです。
『甲斐国志』では、戦国時代の古屋氏の屋敷だったと記しています。
ただし、直接的な史料があった訳ではなく、古屋氏の子孫が近くに住んでいたからだそうで。
古屋氏は武田家の御蔵衆を務めていたそうで、ここはその蔵があったのでは?という感じです。
つまり、史料も伝承も無かったので、状況的にそうかも?という推測だったのでした。
・・・私もよくやりますけど

1994年と2004年に発掘調査が行われた結果、1300年代前半の遺物が発見されました。
年代的には室町時代はじめの南北朝時代に当たります。
出土したのは1994年は常滑甕の破片や内耳土器など。
2004年には高麗青磁梅瓶、大陸産の青磁碗などが出土しています。
これらの事から、かなりの大身の人物の館であったという説が出て来ました。
連方屋敷のすぐ東隣には、足利尊氏が開基した清白寺があります。
地図で見ると、建物とか周りの道の向きがそろっています。
・・・ということで、甲斐守護がここで暮らしていた可能性が指摘されています。
清白寺が開基されたと考えられているのが、1333年または1351年。
その頃の甲斐守護は、武田政義と武田信武です。
そして、足利尊氏との結びつきが強いのは、武田信武の方です。
鎌倉幕府滅亡後、武田政義は甲斐、武田信武は安芸の守護になっていました。
その後、観応の擾乱が始まると、武田政義が足利直義派、武田信武が足利尊氏派となります。
だからといってこの両者が直接戦った訳ではありませんが・・・
武田政義は後に南朝方に寝返り、守護代に討たれて1343年に戦死しました。
この後に甲斐守護も兼ねるようになったのが、武田信武です。
時期的にも清白寺が建立された時期とも重なり、連方屋敷の主の最有力候補です。
その後、武田信武の嫡男・信成が甲斐、次男・氏信が安芸の守護をそれぞれ継いでいます。
所在地:山梨市三ヶ所
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