2017/11/15
雨宮氏屋敷/山梨県笛吹市
雨宮氏の屋敷がどこにあったのかは、実はハッキリしていません。その候補が笛吹市の慈眼寺か長昌寺じゃないか?と考えられています。
ということで、その片方の慈眼寺だけ行って来ました

訪問日は2014年11月15日です。

まずは入口にある鐘楼門です。
入口の門に鐘があるって、ちょっと珍しいような気がします。
塀もしっかりしているので、病の発作が出そうになります。

ちょっと引いて見ると、門の手前に橋が架かっています。
これはもしや・・・

堀跡でしょうか?
自然の流れで出来たようには見えません。
・・・という事にしておきます。

鐘楼門の中にある本堂です。

本命はその裏にある土塁です。
諸兄の皆さまが必ず紹介している、それっぽい遺構です。
私もこれこそ!なんて思いました。
ただ、この向こう側を見るのを忘れてしまいました。

拡大図
鐘楼門の前にある説明板の図です。
天明7年ということで、1787年のガッツリお寺になっている時期の絵図です。
お寺の絵図なのですが、囲まれてますよね?
手前の川と、左から上にかけての堀か崖か。
その正体が土塁の裏側にあったのですが・・・

◆歴史◆
雨宮氏は1500年までに甲斐にやって来ました。
雨宮氏は北信濃の大族・村上氏の一族です。
家紋はバッチリ村上氏と同じ「丸に上の字」(〇の中に上)です。
時期や経緯はわかりませんが、雨宮家国が武田信縄に仕えたのだそうです。
その雨宮家国が1500年に没しているので、それまでに甲斐に来た事になります。
なぜなんだろう?と探りたくなりますが・・・
当時の村上氏は、高梨氏と激しく争っていました。
1495年には善光寺の取り合いで、村上軍が焼き払ってしまっています。
一番大きそうな動機はこの辺りなのかもしれませんが・・・?
甲斐に来た雨宮氏は、武田信縄→信虎→信玄と、代々の武田家当主に仕えます。
1565年、雨宮家次が追放されました。
雨宮家次は次の武田家当主となるはずだった、武田義信に仕えていました。
その武田義信が・・・です。
あまりに有名なお話なのでハショリマス。
だって、ただでさえ脱線しまくってますから

そのとばっちりを食らった雨宮家次は甲斐を追放され、相模へ流れました。
1568年頃、雨宮家次が呼び戻されました。
新天地へ移った雨宮家次は、後北条氏に仕えて立て続けに戦で功を立てました。
3年間で何と感状を7枚も拝領したと言いますから、かなり使える武将だったんですね!
この噂を聞きつけた春日虎綱(高坂弾正)が武田信玄を説得し、甲斐へ呼び戻しました。
そして1575年、長篠の戦に春日源五郎隊の一員として参戦しましたが、戦死してしまいました。
1582年、武田家が滅亡しました。
織田信長により武田勝頼が滅ぼされました。
この時に織田軍の兵火により、慈眼寺と長昌寺はともに焼失したそうです。
その後、お寺はそれぞれ再建され、現在に続いています。
雨宮氏は徳川家康に仕え、旗本家として続いたそうです。
地図を眺めていると、近所に沢山「雨宮~」という会社が載っています。
所在地:山梨県笛吹市一宮町末木(慈眼寺または長昌寺)
山梨県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
無題
雨宮の出については長野、雨宮の出が定説になっていますが、土着の国造系の資料に雨宮が散見されます。
一宮町末木あたりは、甲斐の国衙があった近くで、国造系豪族の古屋、降矢、三枝、石和、(伊沢・石禾)日下部など由来の神社や館跡もあり、想像が膨らんできています。
一宮町隣の塩山・恵林寺には雨宮の墓が多くあり、家紋で分けると3系統を確認しています。
続けて楽しい記事を読ませてください。楽しみにしています。
2020/08/31 17:56 by 13570831 URL 編集
無題
御一門の方からのコメントありがとうございます。かつての同僚にも山梨出身の雨宮さんがいて、ここを訪ねた時は親近感がありました。歴史の話は全くしませんでしたが。家紋だけで3つということは「雨宮氏」のルーツが1つではない可能性があるということですね!複数の説があると「どれが正解なんだろう?」と答えを1つに絞りがちですが、別々のルーツもあり得るというのは忘れてはいけませんでした。拙いブログですが、お読み頂きありがとうございました。
2020/08/31 20:00 by なぽ URL 編集