2017/11/14
田安陣屋/山梨市
田安陣屋は御三卿の田安家が、甲斐国内の領地を統治するために築いた陣屋です。訪問日は2014年11月15日です。

田安陣屋の跡には、水上稲荷神社があります。
この神社が乗っている石垣は、わずかに残された陣屋の遺構です。
北と西に堀跡があるらしいのですが・・・
わかりませんでした


「田安」というと、日本武道館の入口にある「田安門」を思い出しました。
どんな関係があるのかと思ったら、名前の由来がまさにこの門でした。
田安陣屋は、御三卿の田安家が甲斐国内の領地を統治するために置いた陣屋です。
その田安家は、江戸城内の田安門の近くに屋敷を構えた事が、その名の由来です。
御三卿は他に清水家と一橋家がありますが、田安家と同じく一番近くの門が名の由来でした。
上杉家の山内と扇谷、佐々木家の六角と京極、、、武士は地名が命なんですね!
◆歴史◆
1746年、徳川宗武により築かれました。
徳川宗武は8代将軍・徳川吉宗の次男です。
1730年に江戸城田安門内に屋敷を与えられ、田安宗武とも呼ばれていました。
その家格は御三家に次ぐものとされ、将軍となりうる新たな家の登場でした。
田安家からは将軍となる者がありませんでしたが・・・
徳川慶喜の次に徳川宗家当主となった徳川家達は、田安家の出身でした。
・・・脱線、脱線

田安家には武蔵・上野・甲斐・和泉・摂津・播磨の6ヶ国10万石の領地を与えられました。
甲斐では山梨郡28ヶ村、八代郡35ヶ村の計63ヶ村、3万41石にのぼりました。
田安宗武はこの地に陣屋を築き、甲斐の田安領統治の拠点としました。
1792年、太枡騒動が起こりました
甲斐では、伝統的に金納による年貢納付が行われていました。
そのため、甲斐東部では特に養蚕や煙草栽培が盛んに行われてきた経緯がありました。
この年、田安領の代官・横田平五郎が罷免され、山口彦三郎が新しい代官に赴任しました。
新たに赴任した山口代官は、不正を防ぐ目的で新たな枡(太枡)を採用しようとしました。
すると、領民達は年貢増につながるとして反発し、江戸に出向き直訴しました。
この結果、甲州桝は引き続き使用されることとなりましたが、首謀者21名が処罰されました。
幕府は何度も中世以来の年貢徴収法を改めようとしましたが・・・
その都度領民の激しい抵抗に遭い、結果的に明治時代まで続きました。
1832年、山梨・八代・巨摩の3郡40ヶ村が加わりました。
武蔵国内の領地1万7千石の領地との交換で、山梨・八代・巨摩の領地が追加されました。
1870年、田安領が甲府県に統合されました。
1869年に甲斐は「甲府県」となり、甲府県知事が統治するようになりました。
しかし、田安領だけはそのまま残り、代官支配が継続されていました。
明治政府としては旧藩領の接収を進める意向があり、各地で一揆を誘発させていました。
田安領は翌1870年に自主返納の形をとり、甲府県に統合されることとなりました。
これにより、田安陣屋は廃止されたものと思われます。
所在地:山梨市一町田中(水上稲荷神社)
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