2017/11/13
小山城/山梨県笛吹市
小山城は周りを囲む高土塁が残っています。訪問日は2014年11月15日です。

甲府盆地東部のちょっと文章では説明しづらい場所に、小山城がありました。
地図で見ても、ちょっと太い道から1本入った所です。
周りは広域農道っぽい道で信号も無く、ここかな?で入った所にあります。
・・・地図見て下さい

目の前まで来ると、見るからに土塁で囲まれた場所に出るのですぐにわかります。

ここにはこんなに立派な城址碑があります

ただ、訪ねた時間帯が悪かったのか、光の当たっている所と影になった所があり・・・
明るい所に合わせると影が潰れ、暗い所に合わせると明るい所がスッ飛びます。

さて、すぐ後ろの土塁の切れ目から中を見た所です。
この風景、イイですね

いざ、城内へ!

行く前に、土塁の外側にくっきり堀跡が残っていました。
どうしても目の前の遺構に釣られちゃいます。

外周を囲む土塁は、所々途切れていますが、だいたい一周囲んでいます。
土塁に囲まれた空間って、やっぱり落ち着きます

元々なのかわかりませんが単郭ですが、土豪さんの館よりもずっと広いです。

土塁の一角は他の角よりも高く、四阿があります。
ここは櫓台だったと考えられています。
ただ、元々の甲斐の城跡に櫓台があったかどうか・・・
天正壬午の乱の時に徳川軍が改修した時のものかもしれません。
◆歴史◆
1450年、穴山伊豆守が武田信重と敵対しました。
この頃の穴山氏がよくわかりませんが・・・
殺された武田信重は、穴山満春の兄・武田信満の子です。
穴山満春は1417年の禅秀の乱後、高野山で出家していた所を、還俗させられ甲斐に来ました。
それは、幕府と対立する鎌倉公方が、逸見有直を甲斐守護に擁立しようとしたためでした。
室町幕府により甲斐守護に就任させられた穴山満春は、武田信元と名を改めました。
その武田信元は1418年、室町幕府から南部・下山を攻めるよう命じられていました。
・・・確か南部や下山は、1392年に南部氏が陸奥へ去った後、穴山氏の領地だったハズです。
自分でツッコミますが、穴山満春がその時の当主だったなんて書いてます。
その穴山満春=武田信元が、自分の本拠を攻めるよう命令される矛盾www
どうやら表には出てこない穴山氏が、穴山氏当主とは別勢力として活動していたようです。
武田信重は禅秀の乱後、幕府から度々甲斐守護に就くよう命じられていました。
しかし、穴山氏や逸見氏の妨害を理由に拒否し続けていました。
逸見氏は逸見有直の事でしょうが、穴山氏が誰を指すのかが???です

本音の所は鎌倉公方・足利持氏だったと思われます。
その足利持氏が1438年、関東管領・上杉氏と対立し、幕府から討伐されました。
この時に武田信重はようやく甲斐へ赴き、守護となりました。
穴山氏は穴山満春が没し、その猶子・伊豆千代丸も既に甲斐には居ませんでした。
しかし、武田信重は次男・信介を穴山氏の跡継ぎにしています。
・・・やっぱり誰か居たんですねw
武田信重を討った穴山伊豆守の実名は不明ですが、家督を奪われた人物と考えられています。
しかし、その後もよくわからず・・・
武田信重の後はその子・武田信守が継いでいます。
武田信守がまだ幼かったため、守護代の跡部明海・景家父子が補佐していますが。
穴山氏も、遺恨を買ったであろう穴山信介が当主を続けたようです。
誰かこの辺をスッキリ教えて下さいwww
1523年、穴山信永が南部氏に攻められ自害しました。
穴山信永は穴山信介の曾孫で、穴山伊豆守が討伐された後に小山城主になったと思われます。
この頃の穴山氏は、1513年に親武田派の武田信懸が殺され、反武田派となっていました。
この時に当主となった穴山信風は公然と今川氏親に仕え、今川軍の甲斐侵攻を導きました。
今川軍は1515~17年と1521年に甲斐に侵攻しましたが、武田信虎により撃退されています。
穴山信風は武田信虎に降伏し、その軍門に降っています。
その2年後にこの事件が起きているのですが・・・
よくわかりませんw
南部氏は1392年に陸奥へ移っていますが、甲斐に残った一族も居たようです。
武田信玄の家臣として、南部宗秀の名が伝わります。
武田信虎と武田信玄に仕え、1548年に素行不良により会津へ追放された人物です。
詳細はサッパリですが、武田信虎が命じたのか、それとも私怨による争いだったのか・・・
1582年、天正壬午の乱で徳川家臣・鳥居元忠が改修しました。
武田家滅亡→本能寺の変により、甲斐・信濃は大混乱に陥りました。
この時、甲斐を領地に加えようと、徳川家康と北条氏直が争いました。
北条軍は本隊は上野から碓氷峠を越えて信濃に入り、南下して甲斐に入りました。
また、別動隊は郡内地方を押さえ、御坂峠に城を構えました。
一方、徳川家康は信濃の伊那と甲斐の河内から北上し、甲府盆地を押さえました。
徳川家康は新府城を本陣とし、すぐ西の若神子城に陣取った北条本隊に備えました。
その背後の甲府盆地では、各地で城砦を整備し、小山城には鳥居元忠を入れて守らせました。
その後の小山城がどうなったのか?ですが・・・
徳川家康は甲府城を築き勝山城の整備を続けたので、北条軍との再戦を想定したと思います。
鳥居元忠はその後、北条軍に備えるためか、郡内の谷村城を改修してそちらに移っています。
そのため、小山城は廃城になったものと思われます。
所在地:山梨県笛吹市八代町高家
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