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小山城/山梨県笛吹市

小山城は周りを囲む高土塁が残っています。
訪問日は2014年11月15日です。

【写1】小山城

甲府盆地東部のちょっと文章では説明しづらい場所に、小山城がありました。
地図で見ても、ちょっと太い道から1本入った所です。
周りは広域農道っぽい道で信号も無く、ここかな?で入った所にあります。
・・・地図見て下さいあせる
目の前まで来ると、見るからに土塁で囲まれた場所に出るのですぐにわかります。

【写2】小山城

ここにはこんなに立派な城址碑があります恋の矢
ただ、訪ねた時間帯が悪かったのか、光の当たっている所と影になった所があり・・・
明るい所に合わせると影が潰れ、暗い所に合わせると明るい所がスッ飛びます。

【写3】小山城

さて、すぐ後ろの土塁の切れ目から中を見た所です。
この風景、イイですねラブラブ
いざ、城内へ!

【写4】小山城

行く前に、土塁の外側にくっきり堀跡が残っていました。
どうしても目の前の遺構に釣られちゃいます。

【写5】小山城

外周を囲む土塁は、所々途切れていますが、だいたい一周囲んでいます。
土塁に囲まれた空間って、やっぱり落ち着きますラブラブ
元々なのかわかりませんが単郭ですが、土豪さんの館よりもずっと広いです。

【写6】小山城

土塁の一角は他の角よりも高く、四阿があります。
ここは櫓台だったと考えられています。
ただ、元々の甲斐の城跡に櫓台があったかどうか・・・
天正壬午の乱の時に徳川軍が改修した時のものかもしれません。


◆歴史◆

1450年、穴山伊豆守が武田信重と敵対しました。

この頃の穴山氏がよくわかりませんが・・・
殺された武田信重は、穴山満春の兄・武田信満の子です。
穴山満春は1417年の禅秀の乱後、高野山で出家していた所を、還俗させられ甲斐に来ました。
それは、幕府と対立する鎌倉公方が、逸見有直を甲斐守護に擁立しようとしたためでした。
室町幕府により甲斐守護に就任させられた穴山満春は、武田信元と名を改めました。

その武田信元は1418年、室町幕府から南部・下山を攻めるよう命じられていました。
・・・確か南部や下山は、1392年に南部氏が陸奥へ去った後、穴山氏の領地だったハズです。
自分でツッコミますが、穴山満春がその時の当主だったなんて書いてます。
その穴山満春=武田信元が、自分の本拠を攻めるよう命令される矛盾www
どうやら表には出てこない穴山氏が、穴山氏当主とは別勢力として活動していたようです。

武田信重は禅秀の乱後、幕府から度々甲斐守護に就くよう命じられていました。
しかし、穴山氏や逸見氏の妨害を理由に拒否し続けていました。
逸見氏は逸見有直の事でしょうが、穴山氏が誰を指すのかが???ですあせる
本音の所は鎌倉公方・足利持氏だったと思われます。
その足利持氏が1438年、関東管領・上杉氏と対立し、幕府から討伐されました。
この時に武田信重はようやく甲斐へ赴き、守護となりました。

穴山氏は穴山満春が没し、その猶子・伊豆千代丸も既に甲斐には居ませんでした。
しかし、武田信重は次男・信介を穴山氏の跡継ぎにしています。
・・・やっぱり誰か居たんですねw
武田信重を討った穴山伊豆守の実名は不明ですが、家督を奪われた人物と考えられています。

しかし、その後もよくわからず・・・
武田信重の後はその子・武田信守が継いでいます。
武田信守がまだ幼かったため、守護代の跡部明海・景家父子が補佐していますが。
穴山氏も、遺恨を買ったであろう穴山信介が当主を続けたようです。

誰かこの辺をスッキリ教えて下さいwww

1523年、穴山信永が南部氏に攻められ自害しました。

穴山信永は穴山信介の曾孫で、穴山伊豆守が討伐された後に小山城主になったと思われます。
この頃の穴山氏は、1513年に親武田派の武田信懸が殺され、反武田派となっていました。
この時に当主となった穴山信風は公然と今川氏親に仕え、今川軍の甲斐侵攻を導きました。
今川軍は1515~17年と1521年に甲斐に侵攻しましたが、武田信虎により撃退されています。
穴山信風は武田信虎に降伏し、その軍門に降っています。

その2年後にこの事件が起きているのですが・・・
よくわかりませんw
南部氏は1392年に陸奥へ移っていますが、甲斐に残った一族も居たようです。
武田信玄の家臣として、南部宗秀の名が伝わります。
武田信虎と武田信玄に仕え、1548年に素行不良により会津へ追放された人物です。
詳細はサッパリですが、武田信虎が命じたのか、それとも私怨による争いだったのか・・・

1582年、天正壬午の乱で徳川家臣・鳥居元忠が改修しました。

武田家滅亡→本能寺の変により、甲斐・信濃は大混乱に陥りました。
この時、甲斐を領地に加えようと、徳川家康と北条氏直が争いました。
北条軍は本隊は上野から碓氷峠を越えて信濃に入り、南下して甲斐に入りました。
また、別動隊は郡内地方を押さえ、御坂峠に城を構えました。
一方、徳川家康は信濃の伊那と甲斐の河内から北上し、甲府盆地を押さえました。
徳川家康は新府城を本陣とし、すぐ西の若神子城に陣取った北条本隊に備えました。
その背後の甲府盆地では、各地で城砦を整備し、小山城には鳥居元忠を入れて守らせました。

その後の小山城がどうなったのか?ですが・・・
徳川家康は甲府城を築き勝山城の整備を続けたので、北条軍との再戦を想定したと思います。
鳥居元忠はその後、北条軍に備えるためか、郡内の谷村城を改修してそちらに移っています。
そのため、小山城は廃城になったものと思われます。


所在地:山梨県笛吹市八代町高家

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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