2017/11/12
石和陣屋/山梨県笛吹市
石和陣屋は甲府宰相・徳川綱重により置かれた代官所です。訪問日は2014年11月15日です。

陣屋の跡地には石和小学校があります。
その正門脇に、石碑と説明板があります。
その説明板の内容も実にシンプルです


その説明板には肝心な事が書かれていませんが・・・
代官所の門が移築され現存しています。
場所は北北東700メートル弱にある八田家御朱印屋敷です。
今も生活している現役の民家ですが、見学出来ます。
◆歴史◆
1661年、徳川綱重の命により代官所が置かれました。
徳川綱重は徳川家光の三男で、甲府藩の藩主です。
弟が犬将軍・徳川綱吉で、子がその養子となった次の将軍・徳川家宣です。
将軍家の一族として江戸で暮らしたため、甲府には来ていません。
参議に補任された事から「甲府宰相」と呼ばれていました。
1678年に徳川綱重が没すると、子の徳川綱豊が跡を継ぎました。
徳川綱豊は、父が正室を迎える直前に身分の低い女性に産ませた子でした。
そのため幼少期は家臣に預けられ、新見左近と名乗っていました。
しかし、父に跡継ぎとなる男子が生まれなかったため呼び戻された経緯の持ち主です。
1704年、柳沢吉保が甲府藩主となります。
5代将軍・徳川綱吉に跡継無かったため、徳川綱豊が次の将軍になることが決まりました。
そのため、徳川綱豊は江戸屋敷に移り住む事となります。
徳川家光の直系の子孫が他に居なかった、というのがその理由です。
この時に改名し、徳川家宣となります。
そのため代わって甲府藩主となったのが、徳川綱吉の側用人だった柳沢吉保です。
徳川綱吉が大老を置かなかったため、柳沢吉保は大老格でした。
そのため、柳沢吉保も自身は甲府には入らず、江戸で藩政を指示していました。
その治世は検地の実施、用水路の整備、減税など、善政を施したとされます。
1709年、柳沢吉里が藩主となります。
徳川綱吉が没して徳川家宣が将軍となると、幕府内の人事が刷新されました。
この空気を察した柳沢吉保は隠居を願い出、子の柳沢吉里が家督と藩主を継ぎました。
甲府藩では、柳沢吉保が初めて甲府に入った藩主となりました。
甲府藩が幕府直轄領となる1724年まで藩主を務め、その後は大和郡山へ移りました。
以後は幕府が甲斐を統治する三分代官の一つとして、明治になるまで続きました。
所在地:山梨県笛吹市石和町市部(石和小学校)
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