2017/11/11
湯村山城/山梨県甲府市
湯村山城は、武田信玄の館からも見えた烽火台でした。訪問日は2015年4月26日です。

躑躅ヶ崎から西へ2kmの所にある小高い山に、湯村山城がありました。
この山が躑躅ヶ崎の真西にあったので、視界を遮っていたんでしょうね。
それならココにも烽火台造ればいいじゃん?という事だったのかもしれません。
写真は真南から撮影していますが、この写真の奥の道を登ります。
地図では道が行き止まりですが・・・

その行き止まりがココです。
そんなに人が来る場所でもなく、民家とも距離があります。
なので、安心して車を停められます。

ここから山中に入って行く道があります。
地図ですぐ右に描かれている道は遊歩道で、麓から歩いて登らなければなりません。
山の中腹辺りまで登れるこっちの道の方が、登山大嫌いな城キチにはピッタリです


しばらく遊歩道を歩いていると、右から登って来る道が真正面に現れます。
こんな高さなら登っちゃえ!ということで、ちょっとだけ直登します。

しかし、せっかく綺麗な舗装道に出たのも束の間。
ちょっと頑張れそうな高さで、山上に出られそうな光景が現れます。
遠回りするの面倒クサイ!という事で、やはりというか岩ゴツゴツの斜面を登りました。
登ってみると足場が見た目以上に悪く苦戦しましたが、城キチに「撤退」はありません


頂上だと思っていた所は、実は腰曲輪でした。
ここに遊歩道は来ていないので、大人しく道を歩いていたら見る事は出来ませんでした。
・・・と、ちょっと強がってみます(`・ω・´)

ゴールだと思っていたら、ゴールはもっとずっと先だった、という心境です。
一旦はガックリ来ましたが、落ち込んでいるヒマがあったら一歩一歩登るだけです。
チラっとですが上に四阿が見えたので、今度こそ!と再び直登するのでした。

登り切った所がココです。
ここからは、ちゃんとヒト様が歩く道が整っています


山上の平地の端には、こんな感じで低く土塁が巡らされていました。

遊歩道は山上の平地の端にあり、内側の城域は自然の王国となっています。
その中に、所々ではありますが土塁や堀が見られます。

遊歩道沿いは、こんな感じで岩ゴツゴツです。
パッと見石垣?なんて思いましたが、人の手が加わっていなさそうです。
私は見つけられませんでしたが、ちゃんとした石垣もどこかにあるそうです


雑木林に埋もれた土塁と

その裏側の堀です。
ただ、途切れ途切れなので、曲輪の形が想像できませんでした。

大人しく遊歩道を進むと、城跡の案内がありました。
その城跡の方から歩いて来たのですがw

遊歩道を麓側に曲がらず直進すると、その先に烽火台の跡があります。
説明板には、かつてここに復元されていた烽火台の写真が載っています。
形は若神子城跡にあったのと同じ、つるべ式のヤツです。
せっかく復元したものの、老朽化により解体されたのだとか・・・

すぐ近くには、甲斐国内の烽火台ネットワークの図がありました。
あちこち見て来た後なので、見覚えのある名前ばかりで親近感が沸きます

往時は、ここから煙が上がると色めき立ったんでしょうね。
◆歴史◆
1523年、武田信虎により築かれました。
それ以前からあった、という説もありますが・・・
1519年に躑躅ヶ崎館に本拠を移した武田信虎が、甲府盆地を見下ろすココにも城を築きました。
この当時は各地で有力国人と戦っており、見晴らしの良い拠点が必要だったようです。
武田信直(のち信虎)が家督を継いでからあった争いは以下の通りです。
・1505年、父・武田信縄が没し家督を継ぐ
・1507年、父・武田信縄と家督を争った叔父・油川信恵が多くの国人の支持を集め挙兵
・1508年、坊峰合戦で武田信直が油川信恵を討つ、小山田弥太郎が府中(=甲府)に侵攻
・1509年、武田信虎が小山田弥太郎の本拠・都留郡を攻める、諏訪頼満が浦今井氏を攻める
・1510年、小山田弥太郎が降伏
・1513年、親武田派の穴山信懸が殺され、反武田派の穴山信風が家督を継ぎ今川家に属する
・1515年、今川軍が甲斐へ侵攻、大井氏も今川家に従う
・1516年、今川軍が甲斐に侵攻、武田信虎は本拠・川田館付近で敗れる
・1517年、都留郡で今川軍が郡内衆に敗れ、遠江防衛のため武田信虎と和睦
・1519年、浦今井信是が武田信虎に降伏、躑躅ヶ崎館が完成し、家臣団を集住させる
・1520年、要害山城が完成
戦いの連続ですね

今川軍には甲府盆地まで攻め込まれており、甲府市内の勝山城を占拠されています。
躑躅ヶ崎への本拠移転と要害山城築城は、そんな苦い経験から生まれた決断のようです。
しかし、湯村山城が完成したのはそれよりも後の事です。
続きを書くと・・・
・1520年、栗原氏、浦今井氏、大井氏が甲府を退去し挙兵→鎮圧
・1521年、今川軍が侵攻、甲府盆地南端の富田城を奪われたものの、年内に撃退
まだまだ甲府盆地内で戦が続いている状況でした。
しかし、今川軍を撃退した事で穴山氏を再度屈服させ、ここでひと段落します。
武田信玄も湯村山城を利用したと思われます。
1530年代にも有力国人による内乱が続きますが、武田信虎は凌ぎました。
しかし、1541年、嫡男・武田信晴により武田信虎は駿河へ追放されました。
クーデターで家督を継いだ武田信晴は、諏訪→佐久郡→信濃国府中と勢力拡大を開始します。
その際に活躍したのが烽火台ネットワークで、一番端から甲府まで2時間で情報が伝わりました。
ただ、躑躅ヶ崎館は南側しか視界が開けておらず、西の視界を遮っていたのが湯村山城でした。
そのため、躑躅ヶ崎館から見えない烽火を、ここで見張って中継したものと思われます。
所在地:山梨県甲府市湯村町
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