2017/11/11
須沢城/山梨県南アルプス市
須沢城は、山内上杉家の祖・上杉憲顕が、ライバルの高師冬を自害に追い込んだ場所です。訪問日は2014年11月16日です。

城跡にはかつて大嵐集落があったそうで、地図では「大嵐集落跡」と記載されています。
私は南西から登りましたが、その入口にはこんな感じで案内がバラバラに立っていますw

入口から林道を登り切ると、一気に視界が開けた場所に出ます。
その広い場所の入口に差し掛かると、こんな感じの厳重な城門が現れます。
これは城門ではなく獣避けの門で、開けてもいいけどなるべく迂回してね♡と書かれています。

さっきの
ここから奥へと進みました。

進める所までバイクで進んだ後、更に真っすぐ山中へと歩きました。
途中こんな感じの所に出た時には「進めるのか?」なんて頭を抱えましたが・・・
こんな大事な事の記憶がスッ飛んでますが、何となくズンズン進んだような記憶があります。

するとその奥に、こんな立派な石垣が現れました。
どう見ても南北朝時代のものとは思えませんが・・・
石垣見ると、条件反射でつい撮ってしまいます


そんなこんなで獣道を辿って、ようやくお寺に出ました。
本堂の真正面にはキレイな階段があり、どうやらまた無駄に遠回りしたようです


さて、お寺の真正面からは、甲府盆地がとてもよく見えます。
領主様だったら、自分の領地をこんな感じでいつまでも眺めていたいですよね?
・・・という感じの立地のように感じました。
あんまり要害性は無いのですが、山上にまとまった平地のあるいい場所だと思います。

さて、お寺の裏側に回ると、またしても立派な石垣が現れました。
おそらくこれは集落があった時の住居跡と思われます。
お城の遺構だと嬉しいのですが、こんな高さじゃ防御力ゼロですよね?
・・・な~んてケチをつけつつ、体は自然と写真を撮ってます


石垣の脇からは山上に向かって道が伸びていますが・・・
その道はだんだん竪堀っぽい感じになっていきます。
そして、その左側には削平された段が次々と現れます。

真横から見るとこんな感じです。
こんなのが山上に向かっていくつもいくつも連なっています。
集落跡という事もあり「もしかしたら畑?」なんて疑念が沸いて来ます。
それでも、城キチって条件反射ですからw

一番上の段まで来ると、またしても石垣が現れました。
ここに来るまで続いた段々が曲輪なら、もうちょっと堀や土塁で固めても良さげですが・・・
それに、やっぱりこの石垣は、お城のものにはどうしても見えず。
地形も「ここを守るんだ!」という感じには見えません。
・・・という事で、城跡はやっぱりお寺の真正面の階段を下った辺りのようです。
そこには土塁の一部が残り、説明板まであるそうです。
私はと言うと、迷子になるのが嫌で、元来た草の濃い道から下っています



◆歴史◆
『甲斐国志』巻四十八 古蹟部第十一巨摩郡武河筋で須沢城が紹介されています。
あちこちで「甲斐国志では~」なんて書かれているので、つい無気になって探しちゃいました。
ということで、せっかくだしタダで見られるという事で、リンク貼っちゃいますw
(山梨デジタルアーカイブ様のサイトで無料で閲覧可。甲斐国志23の57、58頁をご覧下さい)
この中では「栖澤城」や「栖渓城」と表記されています。
ここでは、主に『甲斐国志』に書かれている内容を紹介します。
『甲斐国志』では御勅使十郎塩谷三郎の城と紹介しています。
御勅使十郎と塩谷三郎がひと続きに書かれているので、1人なのか2人なのか?ですが・・・
『甲斐国志』では、里人の伝承として紹介しています。
著者もこの人誰なんだろう???という感じで、色々系図を漁ったようですが結局わからず。
その名前だけを伝えています。
1184年、甘利行忠が源頼朝に誅殺された事により、領地を没収されています。
没収された領地が甲斐源氏に返されたのが南北朝時代なので、その間はよそ者の領地でした。
ここに塩谷三郎が登場するのは興味深い事で、この人物は1213年の和田合戦で戦死しています。
ということで、年代的にはピッタリ合致する人物です。
後に登場する上杉能憲は、宇都宮氏と対立していました。
その一族の城に上杉能憲と対立した高師冬が籠城した事は、偶然では無いと思えて来ました。
甘利氏の旧領はその後、北条得宗家の直轄地となっています。
1351年末から翌年始めにかけて、高師冬が籠城しました。
高師冬は足利尊氏の執事・高師直の従兄弟であり、猶子でもあります。
1349年、観応の擾乱が始まり、全国的に大混乱に陥りました。
実は、その前兆とでもいうべき状態が関東でも続いていました。
1338年、足利義詮が鎌倉に入り、上杉憲顕がその補佐として関東執事になりました。
しかし、その年の内に突如解任され、高師冬がその後任を務めました。
1340年になり上杉憲顕が関東執事に復帰するものの、高師冬との2人制が条件でした。
・・・つまり、足利尊氏とは仲が悪かった、という事です。
それでも失脚しなかったのは、足利直義や義詮、基氏にはかなり慕われていたからです。
1349年、京都で足利直義が高師直を襲撃した事から、一気に武力抗争に発展しました。
すると、関東でも高師直の家臣が、上杉重能を殺害するという事件が起きました。
同族を殺された上杉憲顕が鎌倉を出て上野国で挙兵したのはこの頃です。
嫡男の上杉能憲も常陸国で挙兵し、次第に鎌倉を圧迫しました。
1351年には上杉軍が鎌倉を攻め、高師冬は甲斐国へ逃れました。
この時に籠ったのが須沢城でした。
上杉憲顕は嫡男・上杉能憲を大将とし、須沢城を攻めさせました。
この時、信濃国の諏訪直頼もともに須沢城を攻めています。
城跡のすぐ脇に諏訪神社があるのは、もしかしたらそのせいかもしれません。
城を落とされた高師冬は自害しました。
『甲斐国志』では、城主の名前が無いので高師冬の城だったかもしれない、と書いています。
ちょっと不思議なのは、この戦で武田氏の名前が登場しない事です。
この年代は、甲斐に武田氏当主が居なかったようです。
甲斐と安芸の守護を兼ねていた武田信武は、主に安芸で活動していたようです。
武田信武の嫡男・武田信成は、1352年の足利尊氏の関東下向に「従い」甲斐から徴兵しました。
という事で、甲斐当地では主体的に行動する勢力が当時存在していなかったようです。
でなければ、足利直義派の上杉軍と南朝方の諏訪軍が堂々と進軍出来ませんからね

城跡には善応寺が残りました。
お寺自体は歴史が古く、鎌倉時代中頃には既にあったそうです。
本堂の西には宝篋印塔があり、寺伝で「落城した時の城主某の霊廟」と書かれているそうです。
・・・その肝心な所、チャンと書いて下さいヨ

城跡にはいつの頃からか、人々が集まって集落が出来ていました。
とあるサイト様によると、お寺の背後の段々は集落の住居跡なのだとか。
この「大嵐集落」から住民が居なくなったのは、大正時代の事だそうです。
所在地:山梨県南アルプス市大嵐(善応寺)
山梨県の城跡/なぽのホームページを表示 |
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