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甘利氏館/山梨県韮崎市

甘利氏の館跡はお寺になっています。
訪問日は2014年11月16日です。

【写】甘利氏館

館跡にある大輪寺は日蓮宗のお寺で、甘利氏の菩提寺でした。
説明板に開基したと書かれている甘利昌忠は、戦国時代の甘利虎泰の嫡男です。
遺構は残っておらず、北門、的場、大庭、大堀という地名だけが残っています。


◆歴史◆

甘利氏の館がありました。

ここに館を築いたのは甘利氏の初代・甘利行忠です。
甘利行忠は武田氏初代・武田信義の嫡男・一条忠類の次男です。
・・・ということで、武田氏の一門です。
いつ館が築かれたのかは不明ですが、甘利行忠が源頼朝に殺されたのが1184年です。

この頃の甲斐源氏は、信濃・甲斐・遠江を領有する、鎌倉から最も近くに居た大勢力でした。
源頼朝は甲斐源氏の勢力を危惧し、アメとムチを使い分けて甲斐源氏の分断を図りました。
甲斐源氏の棟梁は武田信義でしたが、最終的に家督を継いだのは五男・武田信光でした。
甘利行忠は父・一条忠類とともに鎌倉に呼び出され、宴の最中に暗殺されています。
・・・なので、それまでには築かれた事になります。
この時に甘利荘は幕府に接収されてしまいますが、室町時代に入り返されています。

戦国時代末まで甘利氏が本拠としました。

最も著名なのが甘利虎泰で、板垣信方とともに武田家臣の最高位・両職を務めています。
武田二十四将はもちろん、武田四天王の一人にも数えられています。
1541年に武田信玄が父・信虎を追放したクーデターで、中心的役割を果たしましたが・・・
1548年に村上義清と戦った上田原の戦で、板垣信方とともに討死してしまいました。

甘利信忠が跡を継ぎました。

甘利信忠も板垣信憲とととに武田信玄の両職を務め、武田二十四将に数えられています。
主に取次(外交官的な役割)として活躍しています。
正確な没年は不明ですが、1564年以降に文書が絶えている事から、この頃と考えられています。

弟の甘利信康が名代を務めました。

甘利信康は甘利信忠の弟です。
甘利信忠の子・信頼がまだ幼かったため、甘利氏当主の名代を務めました。
真田幸隆が1567年に上野国の白井城を攻略した時が、歴史上での初見とされます。
武田軍の中では、武田信玄の本陣を守る鉄砲衆の中にその名が見られます。
1575年に武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れた長篠の戦に、甘利信康も参戦していました。
甘利信康は武田軍左翼の山県昌景隊に属し、総崩れとなった中で自害しました。

1567年、館の跡に大輪寺が創建されました。

少し年月が遡りますが、甘利信忠が没するとその三男・日国聖人が大輪寺を開山しました。
という事は、幼当主・甘利信頼と名代の甘利信康は、ここには居なかったという事ですね。
1582年に武田勝頼が滅ぼされましたが、その前後から甘利氏の足跡がわからなくなります…


所在地:山梨県韮崎市旭町上條北割(大輪寺)

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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