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若神子城/山梨県北杜市

若神子城は、天正壬午の乱で北条氏直が本陣とした所です。
訪問日は2014年11月15日です。

若神子城には北城、古城(大城)、南城の3つの城域があります。
まずは北城へ行きました。

【北城】



ここには若神子城の案内は無いので、Club Verdeを目指します。
国道141号を走っていると緑色の大きな看板があるので、そこから山に入ります。

【写1】若神子城

山上に出たら突き当りにあるココまで真っすぐ進みます。
特に何も表示の無い空き地なので、気兼ねなく車を停められます。

【写2】若神子城

空き地の左脇には、車の通った跡のある道が真っすぐ伸びています。
その入口脇にこれがありました。
この手の掲示がある場所は、それなりに厄介な事がありそうです。
さっきの空き地は、実は破壊が中断されている状態なのかも?なんて深読みしてしまいます。

【写3】若神子城

その右後ろに、文字が何とか読めなくない所まで朽ち果てた標柱が立て掛けてありました。
もう3年も経っているので、今では崩れ落ちているかもしれません。
新しいのが立ってればいいのですが・・・

【写4】若神子城

道はこんな感じで、雑木林の中を真っすぐ伸びています。

【写5】若神子城

何か無いかな~?と木々の間を見ていると、ありました恋の矢
だいぶ鋭さは無くなって痕跡みたくなってしまってはいますが、2メートル程あります。

【写6】若神子城

あったあったヾ(*´∀`*)ノとテンション上げながら、更に奥へ進みます。
進みますが、なかなかそれっぽいものが見当たらず・・・
視界には自由気ままに育った雑木林ばかりが飛び込んで来ます。
そんなこんなで5分程真っすぐ歩き続けると、今度は正面に土塁が現れました。
ここが北城の南端部です。

北城は天正壬午の乱の際、北条氏直が築いた陣城です。
大軍を1ヶ所にまとめて待機させるため、かなり広い平坦地が必要だったハズです。
何にもない真っ平らな所では、奇襲を受けたらひとたまりもない・・・
そんな状況で、舌状台地上にまとまった空間のあるココがピッタリだった、のだと思います。


【古城(大城)】



古城は大城とも呼ばれ、ふるさと公園となっています。
地図では目立つのですが、特に案内は無く・・・
県道28号でヘアピンカーブを2回登ったちょっと先の、ココが公園の入口です。
小さく「ふるさと公園」と書かれています。
じーっと集中していないとアッサリ見落としてしまいます。

【写7】若神子城
拡大図

入口には立派な駐車場があり、その奥にこの案内図があります。
「ここって若神子城跡・・・だよね?」と図を見ると、小さく書かれてはいます。
知らずにココに来た人から見ると、「山の中にあるなぜか立派な公園」にしか見えません。

【写8】若神子城

駐車場から公園に入ると、赤レンガの敷き詰められた立派な虎口が出迎えてくれます。
テンションあれあれ~ですあせる
ゲームの「信長の野望」に登場し、「変わった名前だな~!」なんて読み方まで調べたのに…

【写9】若神子城

ただ、その脇に植え込みに厳重に囲まれた「ボコボコ」があります。
植え込みがこれだけ密生していると、お子様が出来心で突撃することも出来ません。

【写10】若神子城

せっかくなので、反対側からもサービスショットラブラブ
その前にある説明文の書かれた立て札には「天正壬午の乱と薬研堀の跡」と書かれていました。
幅1メートル、深さ1.2メートルは小さ過ぎないかと思いましたが・・・
ちゃんと読むと、これは「掘っている途中で止めちゃった跡」という事でした。
北条軍が駐屯していた北城も、土塁はそんなに大規模ではありませんでした。
徳川軍と睨み合いをしながら、徐々に陣地を構築していたという事でしょうか。

【写11】若神子城

そうかそうなのか!と妙に納得した所で、せっかくなので主郭です。
こちらも赤レンガがしっかり敷き詰められています。
もう泣きたくなるのを通り越しちゃってますw

【写12】若神子城

一番奥に説明板と櫓っぽいのが見えたので、よろよろとそっちへ進みます。
この説明板には甲斐源氏がココから始まった事と、交通の要衝であることが書かれていました。
説明文ではココ若神子城だけでなく、谷戸城や獅子吼城についても触れられていましたが・・・
その脇にある市内の旧跡が描かれた案内地図には、これらの城が描かれていません。
もぉー、なんだってばさwww

【写13】若神子城

あぁ、読まなきゃ良かったと思いつつ、最後の力を振り絞って櫓の元へ。
これは発掘調査の結果を元に復元された、つるべ式の烽火台です。
若神子は、佐久方面と諏訪方面の烽火台ネットワークが合流する所です。
これらの烽火台ネットワークは、端から甲府まで2時間程で情報を伝えられたそうです合格

【写14】若神子城

さて、上の写真は素人撮りなので、空が白く抜けてしまっています。
実はココはとても見晴らしが良く、某名峰が背後に見えます。
ここで烽火を上げれば、一気に甲府からも見えますよね?

脱力ついでに、案内図でこの先に描かれている「大手虎口」を見落としていました。
もう失態に次ぐ失態で、流す涙も枯れ果てました。
これから訪ねる皆様は、何があるかわかりませんが、是非見て来て下さいw


【南城】

ここの存在を知ったのが、これを書き始めてからです。
事前リサーチ何やってんだ?って感じですあせる
場所は下の地図に〇印を入れた所で、現在は法徳寺というお寺があります。
不幸中の幸いというか、城キチとしては不幸ですが・・・
土砂採取のため崩され、遺構は完全に消滅しているそうです。
それでもお寺の写真の1枚でもここに貼れれば良かったのですがあせる


◆歴史◆

『甲斐国志』では、源義光が築いたと紹介されています。

源義光は新羅三郎と呼ばれ、武士の憧れである八幡太郎・源義家の弟です。
その子孫には武田氏の他、佐竹氏や平賀氏などがあります。
文中では源義光が甲斐でまずここに城を築き、義清から信義まで居城としたと書かれています。
近くにある正覚寺の寺伝によると書かれていますが・・・
某大聖典はこれについて、若神子に居たとは書かれているものの、築城説には否定的です。

武田信玄がココで陣立てをたびたび行いました。

「陣立て」とは、陣形を整える事です。
陣形には〇〇の陣が色々あり、兵の配置によって戦の有利・不利が決まってきます。
そのため、戦況によっては途中で合図1つで素早く陣形を変えなければなりません。
ここは丁度良い高台でもありますし、すぐ下は真っ平らな平地が広がっています。
場所的にも甲斐から信濃への途中にあり、そういう訓練には丁度良かったのですね!

史料では『甲斐国志』の新羅三郎義光~義清以外の城主が全く伝わっていません。
そのため、誰かの城という訳ではなく、陣を置くための場所だったのかもしれません。

1582年、天正壬午の乱で北城軍が改修して本陣としました。

『甲斐国志』では、北条氏直が天正壬午の乱で本陣にした事も書かれています。
天正壬午の乱は武田家滅亡と本能寺の変が続けざまに起きた事による甲斐・信濃の大混乱です。
武田勝頼滅亡後に織田家家臣が各地に配置されましたが、間もなくその親玉が世を去りました。
すると甲斐・信濃の各地で織田家臣排斥の動きが活発となり、領主不在の空白地となりました。

2か国にまたがる空白地を巡り、徳川家康、北条氏直、上杉景勝と真田昌幸らが争いました。
甲斐では徳川家康と北条氏直が争い、ココに北条氏直が本陣を置きました。
6月に始まった騒乱も10月には落ち着き、甲斐は徳川家康の領地となることで決着しました。
北条軍が去った事で、若神子城は役割を終えました。


所在地:山梨県北杜市須玉町若神子

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なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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