2017/11/05
中尾城/山梨県北杜市
中尾城跡には、かなり特徴のあるモニュメントがあります。訪問日は2014年11月15日です。

中尾城の主要部は、現在は工場の敷地となっています。
地理的には須玉川と塩川の河岸段丘に挟まれた、天然の要害です。
とは言っても南と北は平坦で、田んぼに囲まれた微高地のようにも見えます。

この工場の裏側(北側)に、城について書かれていた説明板があります。
しかし、文字は消えて読めない上に、何だかグニャッと曲がっています。
車の襲撃でも受けたのでしょうか?

何とか文字を読み取ろうとしますが、こんな感じで読めません。
辛うじて「中尾城」の文字を見つけました。
周辺はこんな感じなので、完全に潰されてしまっています。
遺構は無く説明板もあんな感じなので、ググっても殆ど出て来ません。
そんな中、市町村合併前の須玉町役場による発掘調査の報告書がヒットしました。
40MBのPDFですが、タダでダウンロード出来ます。
全国遺跡報告総覧/中尾城遺跡・塚田遺跡
この中に中尾城の古図が載っていますが、堀を複雑に巡らせた大規模なお城だったようです。
発掘調査では、説明板のある辺りで北堀が見つかったそうです。
そのほかには柱の跡も見つかったようですが、中尾城の痕跡はそれだけです。
これらは土の中に埋め戻されたようで、見る事は出来ません。
◆歴史◆
城があった事は確かなのですが、どうもこの城は伝説ばかりが伝わります。
武田信光が築いたと伝わります。
『北巨摩郡誌』では、武田信光の居城だったと書かれています。
武田信光は甲斐守護となった武田氏の2代目で、初代・武田信義の5男です。
時代は平安時代末から鎌倉時代初期の人物で、源頼朝に信頼されていました。
木曽義仲とも仲が良かったのですが、信濃の支配権を巡り対立。
その後は源頼朝の先鋒として、木曽義仲討伐で戦功を挙げています。
甲斐源氏初期は、主に八ヶ岳南麓の逸見荘(北杜市)を中心に勢力がありました。
ここはその南側にあり、武田信光が建立した信光寺も近くにあります。
里人の伝承だそうですが、地理的にはアリです。
今井氏の浦ノ城に比定する説もあります。
今井氏は室町時代初期の甲斐守護・武田信満の子・武田信景を祖とします。
子の代に2家に分かれ、兄・信乂の系統が表今井家、弟・信慶の系統が裏今井家となります。
表今井家は守護の武田家に仕えて移り、当地には裏(浦)今井家が残りました。
浦今井家は今井信景の兄・江草信泰の遺領と名を継ぎ、当主は「浦兵庫」と呼ばれます。
おおまかに1428年頃の事です。
史料には「浦ノ城」が登場しますが、多くの場合は獅子吼城の事として紹介されています。
ただ、当地の今井氏は江草城(=獅子吼城)を継ぐ前から「浦」今井家と呼ばれていました。
浦今井家には、獅子吼城とは別に本拠となる城があった筈です。
そのため、中尾城 = 浦ノ城とする説もあります。
小幡昌盛が武田信玄から与えられたとする説もあります。
武田家臣の小幡氏というと、西上野出身という印象があります。
しかし、小幡昌盛の祖父は遠江から来た小畠盛次なので、全くの別系統です。
「小幡」の字に改めたのは、武田信玄の命令によるものだそうです。
小幡昌盛は猛将・小幡虎盛の子で、自身も武田24将に数えられます。
父に引き続き、川中島の海津城城番を命じられ、第4次川中島合戦(1561年)で大活躍しました。
しかし、武田信玄の近くに居る事を望んで海津城副将への就任を拒否。
これが武田信玄の逆鱗に触れ、甲府の妙音寺に幽閉され切腹を命じられています。
そのため、中尾城が与えられたとすると、その間という事になりそうです。
期間があまりにも短いので、城に入ることは無かったと思われます。
小幡昌盛のその後がとても気になりますが、武田勝頼の助命嘆願により切腹は免れています。
1582年に武田家が滅びますが、その防衛戦には病のため出陣出来なかったそうです。
小幡昌盛は武田勝頼が滅びる直前に暇乞いをし、甲斐善光寺で病死しています。
命の恩人に報いる事が出来ず、悔しかったでしょうね・・・
1582年、天正壬午の乱で後北条軍が入った、かもしれません。
中尾城は北条氏直が本陣とした若神子城と、北条軍が籠城した獅子吼城の間にあります。
そのため『甲斐国志』は、壬午の乱の時に改修されたかもしれない、と紹介しています。
※甲斐国志での記述を探し当てました

山梨デジタルアーカイブにある甲斐国志のリンク
これの「10~12」の一番左のページに書かれています。
古文は苦手なので、読める方読んで下さい

所在地:山梨県北杜市須玉町小倉
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