2017/11/04
比志城/山梨県北杜市
比志城は西側の麓を通る小尾街道を監視する烽火台だったと考えれらています。訪問日は2014年12月23日です。

城跡へは県道23号のココを曲がります。
そして、奥に見える電柱の所で左折です。

お寺の前を通り過ぎ、ひたすら山の方へ進みます。
すると左側に砂防ダムが見えるので、ガードレールの切れ目から山の中へ進みます。
目指す比志城のあった城山は、砂防ダムの真上に見える小高い所です。
・・・なんて偉そうに書いていますが、実は私、間違えて右隣の山に登っていました。
でも、それは林道を一番奥まで走っての事なので、上の写真の矢印通りに進んでokです。
気が付いたのは登ってからで、iPhoneのドラゴンレーダー見ながら首を傾げていました。
幸い土橋状の鞍部を伝って目的地には到達できました。
なので、城跡から道に出るまでの道を、逆送りで紹介しています


うっすらとした道が見えますでしょうか?

道と言えば道ですが、そこを通ればまあまあ楽だという程度です。

最初に目指すのは、真正面の鞍部です。
城キチ風に表現すると、左右の山を結ぶ土橋みたいな所です。
どこを歩いても登れそうなので、あまり道にこだわる必要はありません。

鞍部に着いたら回れ左です。

ちょこっと登った所が東郭です。
この先にどうみてもアレだ!というのが見えて来ます。
迷わずそこへ向かいましょう。

四阿だと思っていたのは、実は小さな祠を守る屋根でした。
「四阿」を「あずまや」と読むのは知っていましたが、気になり調べてみました。
すると、大雑把に「四角形の屋根」という意味でした。
あずまや自体は「東屋」とも書き、屋根と柱だけで壁の無い建物という意味です。
まさに見たまんまでおっしゃる通りですw

さて、せっかく道間違えて隣の山に登っちゃったのに、これで終わりではちょっと…
そんな感じで辺りを見回すと、四阿からちょっと外れた木にこれが立て掛けてありました。
かなり朽ち果ててしまっていますが、何とか文字は読むことができます

この側面には、小さな文字で説明文が書かれています。

あとは、登って来た方向にある東郭があります。
ここはザッとこれだけです。
◆歴史◆
不詳
流石に小さな烽火台1つについて記述した史料は、なかなか無いようです。
周囲にある歴史のありそうなものは比志神社や徳泉寺です。
そのどちらにも「日向大和守」の名が登場するので、日向氏の領地だったようです。
その日向(ひなた)氏は、巨摩郡村山郷を本拠としていました。
村山郷ってどこ?ってググっても、北杜市としか出て来ませんでした。
北杜市はたくさんの町村が合併したので、かなり広いのですが・・・w
比志城のあるココも北杜市内なので、ここら辺という事にしておきます。
ここからは、Wikipediaに書かれている事をザックリ書きます。
日向氏の史料上での初見は、1520年なのだとか。
日向図書助とその兄弟が、信濃国佐久郡へ時宗の僧を迎えに行った事が記されています。
また、比志神社の1528年の棟札に、日向是吉とその子や家臣の名が記されています。
さらに、1550年には馬場信房(1562年に信春と改名)とともに、深志城の城代に任命されました。
・・・日向大和守は、かなり腕の立つ武将だったんですね!
ただ、この直後の砥石崩れを機に、日向大和守は子の日向虎頭を指すようになります。
日向虎頭は主に信濃で活動し、1582年の武田家滅亡の際は信濃国の大島城を守っていました。
城主の武田信廉がサッサと逃げてしまったので、城を枕に討死すると息まいていたそうです。
しかし、この時の日向虎頭は老齢だったため、家臣らが謀り本拠の村山に連れ帰ったそうです。
ただ、よほど悔しかったのか、日向虎頭は村山に帰るとそのまま自害してしまったそうです。
その3か月後、本能寺の変により甲斐・信濃が大混乱に陥り、天正壬午の乱が起きました。
この時、すぐ南の獅子吼城には後北条軍が入り、徳川軍と戦っていました。
徳川家康は武田旧臣の津金衆に獅子吼城を攻めさせています。
そして、比志一帯は津金衆の小尾氏に与えられており、日向氏はココには居なかったようです。
所在地:山梨県北杜市須玉町比志
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