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古宮屋敷/山梨県北杜市

古宮屋敷は、武田家に仕えた津金衆の頭目・津金氏の屋敷でした。
訪問日は2014年11月16日です。

【写1】古宮屋敷

屋敷跡を南側から見た所です。
左側がおいしい学校、右側がカフェ明治学校です。
きっとこの段差は城塁の名残なのでしょう。

【写2】古宮屋敷

真ん中の道の奥にあるのが諏訪神社です。
手前の両学校よりもさらに一段高くなった所にあります。

【写3】古宮屋敷

神社の前の階段を上がった所に、この石碑があります。
「屋敷跡」というと城キチとしては二の足踏みますが、「城」の文字が嬉しいです恋の矢

【写4】古宮屋敷

諏訪神社の境内です。
十分高台にあるのですが、その中でも内側は更に段差があります。
どれだけ高い所が好きなのでしょうか?w

【写5】古宮屋敷

階段の左側はこんな感じになっています。
これはどう見ても堀と土塁ですよね?
ただ、冬でも青々とした笹が茂っており、何となくしか感じられません。

【写6】古宮屋敷

でも!
この堀跡を辿って行くと、下草が無くなり見やすくなります。
奥の方で堀と土塁が右(北側)へ曲がるのが見えます♪

【写7】古宮屋敷

西側は端から端まで視界を遮る草が無く、とてもハッキリ見えますラブラブ

【写8】古宮屋敷

その堀は、北端で切れています。
北側は断崖なので、堀を掘る必要が無いんですね。
あんまり注目されない所ですが、こんな感じで堀はバッチリ残っています。


◆歴史◆

津金衆の頭目・津金氏の居館でした。

津金氏の出自は諸説ありますが、常陸国の佐竹氏が甲斐に来た事では一致しています。
その中でも有力なのが、文明年間(1471~86年の間)に甲斐に来た佐竹胤義を祖とする説です。
もう津金衆について触れる事も無いかもしれないのでちょっと頑張りますw

その頃の常陸では、佐竹氏当主が2代続けて若死したため、主導権争いが起きていました。
当時の佐竹氏当主は佐竹義治で、一門筆頭格の山入氏と争っていました。
また、近隣の岩城氏とも争っていたようで・・・
かなり複雑になってきたのでギブアップしますあせる
・・・という事で、何らかの理由により常陸を追われる事になったと思われます。

甲斐の武田氏と常陸の佐竹氏は、平安時代末に分かれた同族です。
武田氏の祖・源義清は、佐竹氏の祖・源義業の弟でした。
だから、佐竹胤義は遠い遠い親戚である武田信昌を頼って来たという訳です。
佐竹胤義は津金の地を与えられ、以後は津金姓を名乗って武田家に仕えました。
津金氏は周辺に一族を配置し、次第に同族集団となって津金衆と呼ばれるようになりました。

1582年、主の武田家は織田信長により滅ぼされ、その織田信長も本能寺の変で斃れました。
この混乱は天正壬午の乱と呼ばれ、徳川家康に仕えて後北条方の獅子吼城を攻略しています。
徳川家康に仕えた津金衆は、先祖代々の土地の他、新たな領地も与えられるなどして続きます。


所在地:山梨県北杜市須玉町下津金(諏訪神社)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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