2017/11/03
朝日山塁/山梨県北杜市
朝日山塁は、旭山の山頂に築かれた後北条軍の陣の跡です。訪問日は2014年12月23日です。

朝日山塁跡へ通じる道は、南側に案内があります。
下の地図でオレンジ色の〇印を付けた所がココです。
いろんな所で「旭山塁」と紹介されていますが、私はココの表記に従い「朝日」で書きます。
Google Mapではここから真っすぐ通じる道が描かれていますが、人が歩いて登る道です。
車で通れる舗装道はちょっとだけ遠回りになりますが、グレーの太線で表示しました。
尚、私が訪ねた12月下旬には、道が一部凍結していました。
これから訪ねる方は、是非路面の状況に注意して下さい。

南側から走って「もう登り切ったかな」という所で、右側に入る道があります。
ここが朝日山塁跡への入口です。
舗装されているのは入口だけで、先のほうは砂利コロコロの未舗装路です。
・・・という事で、私は愛車(オンロードバイク)を近くの路肩が広い所に停めました。

ちょっと進むとかなり広いスペースに出ます。
ここが駐車場のようです。
道自体はこの奥にも通じており、車でも先に進めます。

上の写真の奥に写っていますが、北の曲輪の城塁です。
お!来た来た!とテンションも上がり気味に。

うっすらとですが、横から見た城塁-帯曲輪-土塁です。

さて、北の曲輪に入ったものの、しばらくは山林の中の林道という感じです。
平らに馴らされてはいますが、道の両側は草木が茂っていて「あれ?」という感じです。

しかし、「ここは城跡なんだ!」と信じてそのまま進むと、正面に石碑が見えて来ます。

裏に回ると、朝日山塁の石碑でした!
こっちが表なので、私が裏から入っただけですがw
こちらも表記は「朝日山」です。
・・・ちょっと意地張ってます


石碑のある所が虎口で、引いて見ると堀と土塁がよく見えます。

上の写真だと分かりヅライのですが、虎口から右側を見るとこんな感じです。
それまでただの平らな山林を歩いて来たので、一気にテンション上がります

この堀の奥も虎口になっています。

せっかくなので、虎口の左側も


某大聖典では、虎口の北側を三の郭、南側を一の郭と紹介しています。
これは一の郭の東側の土塁です。

一の郭は北から東、南にかけて、しっかり土塁で囲まれています。

東側の土塁の真ん中に開いている所がありますが、これは虎口ではありません。
これは近世になって南側から登って来る道が通されたものです。
・・・紛らわしいデスネ

私はこれを見ただけでは遺構の虎口と区別出来ませんでした。
まだまだひよっこ


これは一の郭の南東にある食い違い虎口です。
写真だとちょっとわかりヅライですね・・・

その虎口の西側です。
だいぶ埋まっていますが、堀跡です。

その反対側(一の郭の内側)の土塁です。
この先(西)へ進むと、斜面が緩やかに下って行きます。
私はこの先は自然地形だと思って見に行かなかったのですが・・・
緩い斜面は実は二の郭で、平場が三段あるそうです。
事前に図まで印刷して訪ねたのに、ちょっと残念なヤツでした

◆歴史◆
天正壬午の乱の時に、後北条軍が築いたと伝わります。
『甲斐国志』では、武田氏の烽火台を北条氏直が改修して使ったと記述しています。
烽火台にしては見晴らしが良くありませんが・・・
天正壬午の乱は、1582年に甲斐・信濃で繰り広げられた争いです。
・・・ココから書くと大変長くなるので割愛しますが、徳川・北条・上杉氏の争いです。
甲斐では、徳川家康と北条氏直が争奪戦を繰り広げていました。
北条氏直は若神子城、徳川家康は新府城に布陣し、睨み合いを続けていました。
朝日山塁は若神子城の北側にあり、新府城から見ると若神子城の背後にあります。
緩い傾斜の山上に広大な平地があるので、徳川軍に抑えられまいと確保したのでしょうか。
すぐ東側には徳川軍に味方した武田旧臣の津金衆がいたので、その抑えだったかもしれません。
やがて徳川軍と後北条軍は和睦し、甲斐は丸々徳川家康の領地となりました。
こうして朝日山塁は、短い期間で役割を終えたのでした。
所在地:山梨県北杜市高根町村山北割
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