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馬場氏屋敷/山梨県北杜市

馬場氏屋敷は馬場信春の屋敷でした。
訪問日は2014年11月16日です。

【写1】馬場氏屋敷

事前に調べて訪ねたのが、白州中学校の隣にある自元寺でした。
白い壁に囲まれたこの感じ、ちょっと脳内加工すればイイ感じですラブラブ

【写2】馬場氏屋敷

真正面から見たら、お寺ですがw

【写3】馬場氏屋敷

このお寺の入口に赤い屋根の門があります。
この門が、馬場氏屋敷にあった門です。
おお!ぉぉ!おお!と意味不明な雄たけびを上げ、意気揚々引き揚げました。



さて、その門には説明板が付けられており、馬場氏の屋敷にあった門だと書かれていました。
しかし、「白州町白須1008-1番地付近から移した」とも書かれていました。
・・・こういうのは事前に見なきゃダメですねwww
ということで、その番地辺りのストビューですあせる
右側が北杜市立白州保育園で、この敷地内に馬場氏の屋敷跡だったという標柱があるそうです。


◆歴史◆

馬場信春の屋敷でした。

馬場信春は武田家臣で、元は武川衆の教来石景政という名前でした。
1531年に18歳で初陣後、メキメキと頭角を現し出世街道まっしぐらでした。
1546年に武田信玄に侍大将に抜擢され、この時に馬場氏の名跡を継ぎ馬場信房と改名します。

馬場信房は信濃制圧でも大活躍し、小笠原氏が去った信濃の統治を任されます。
上杉謙信と何度も戦った川中島では、別動隊の指揮も任されています。
築城の名手とされ、信濃各地に今も残る数々の名城を築きました。

1562年には前年に引退した武田軍随一の猛将・原虎胤から美濃守の名前を拝領。
この時に馬場信春と改名しています。
70回以上戦に参加しながら、かすり傷1つ負わなかったため「不死身の鬼美濃」と呼ばれました。

しかし、武田信玄が没して武田勝頼が家督を継いでからは、不運の連続となります。
武田勝頼は武田信玄を支えて老臣達よりも、若い家臣を傍に置くようになります。
1575年の長篠の戦では、馬場信春や山県昌景らの進言を無視して出陣しました。
その結果、織田・徳川連合軍に壊滅的な敗北を喫し、武田家滅亡のきっかけを作りました。
この時、馬場信春は武田一門を退却させるために踏みとどまり、壮絶な最期を遂げました。

馬場家はその後、子の馬場昌房が継ぎました。
馬場昌房は謎だらけの人物で、名前すらよくわかっていません。
父と同じ「馬場美濃守信春」を名乗っていたともされます。

1582年に織田軍に攻められ、松本城の開城後は消息不明となります。
その後は馬場信春(父の方)の弟・馬場信頼が継ぎました。


所在地:山梨県北杜市白州町白須

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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