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教来石民部屋敷/山梨県北杜市

教来石民部は、武田氏に仕えた武川衆・教来石氏当主が代々名乗った名前です。
訪問日は2014年12月23日です。

【写1】教来石民部屋敷

甲州街道脇にあるサントリーの看板の所で左折。
その先の十字路で右折。
その先の左側へ登る脇道へ。
その先にあるのがダダっ広い空き地で、ここが教来石民部の屋敷跡です。

【写2】教来石民部屋敷

空き地にあるのは立派な標柱と説明板です。
奥にあるあずま屋がもうちょっと大きければ、それなりに雰囲気があったかもしれません。

【写3】教来石民部屋敷

標柱の手前にはこんな感じで、一直線の窪みがあります。
病的な目で見ると堀跡に見えなくもありませんが・・・
我に返った目で見ると、整地の際に土を盛らなかっただけにも見えますあせる


◆歴史◆

教来石氏の屋敷でした。

全くヒネリがありませんが・・・
ザックリどんな一族かをご紹介します。

出自は美濃守護・土岐氏の一族という説と、武田氏の一族という説などがあります。

土岐氏説は、土岐光衡の子孫が教来石村に土着したという説です。
ただ、それ以外によくわからず。

武田氏説は、一条信長の孫・広政が教来石姓を名乗ったことに始まります。
一条氏は他の武川衆の祖でもあり、こちらの説の方が説得力がありそうです。

その一条氏は、鎌倉時代初期に甲斐守護となった武田氏一門です。
武田氏の祖・武田信義の嫡男・一条忠類を祖としますが、源頼朝に粛清されました。
その弟・武田信光が、兄の名跡を子の信長に継がせて復興しました。
一条氏の子孫には、信濃との国境地帯を守った武川衆があります。
教来石氏は、その中の一族です。

教来石氏といえば、後に改名した馬場信春がとても有名です。
馬場信春の初名は教来石景政で、先祖代々の民部少輔を名乗っていました。
なので、「教来石民部」は教来石氏の当主を指すことになります。

馬場信春は武田信玄の命により、1546年に馬場氏の名跡を継ぎ馬場信房と改名します。
馬場氏も出自が不詳ですが、教来石氏と同じ武川衆に属していました。
その馬場氏に教来石氏から養子が入っているので、元々両氏は同族という事になります。
馬場氏は1529年に馬場虎貞が武田信虎の逆鱗に触れて殺され、絶えていました。

教来石景政(馬場信春)は1531年に初陣後、メキメキと頭角を現しました。
武田信玄は父・武田信虎を追放すると、同盟を結んでいた諏訪氏を侵略。
さらにこの時諏訪氏と組んで敵対した伊那地方を、1545年に支配下に収めました。
おそらく、この時に教来石景政は大活躍したのでしょう。
馬場氏の名跡を継がせたのは、重臣の列に加えるためだったのかもしれません。

・・・長くなりそうなので、ここまでにしますあせる


その後、教来石氏を継いだ人物が居るのかが?です。
馬場信春には弟・信頼が居り、1582年に馬場信春の子が世を去ると馬場家を継ぎました。
馬場信頼には子が数人居たようなので、その内の誰かが教来石家を継いだのでしょうか・・・?


所在地:山梨県北杜市白州町鳥原

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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