2017/10/09
富田城/山梨県南アルプス市
富田城は所在不明の城です。訪問日は2014年11月16日です。

城の所在は不明ですが、だいたいこの辺?という所・・・なのかも?ですが石碑があります。
そのせいでしょうか。
石碑に彫られている文字は「富田城顕彰之碑」となっています。

中部縦貫道沿いに城址碑があるんなら、簡単に見つかるのではないか。
私はそう思っていましたが、現実は甘くありませんでした。
それというのも、石碑は木々の合間に埋もれるように立っているからです。
周りの様子を載せますので、頑張って見つけて下さいw
◆歴史(99%推測です)◆
大井信達の城でした。
歴史に登場する時期が限定されているので、もしかしたら陣城だったかもしれません。
あちこちググって出て来た富田城が登場する出来事は以下の通りです。
1515年、武田信虎に包囲されたもの、大井信達は今川軍の援軍を得て撃退。
1521年、今川軍の福島正成に攻め落とされた。
・・・これだけです

たぶん、ザックリした流れは以下のようになるかと思います。
これから甲斐国内の城跡を調べまくるので、まだまだ粗削りです

武田信虎が甲斐国内の諸勢力と戦っていました。
大井信達は武田一族ですが、武田氏や穴山氏と争っていました。
その穴山氏で1513年に当主が殺され、跡を継いだ穴山信風が今川氏に属しました。
小山田氏も武田氏と争っており、大井信達はこれらの勢力と組んで武田氏に対抗しました。
おそらく、これらの勢力の一大拠点として築かれたのが富田城ではないかと思います。
現在は所在不明ということで、おそらく平城であっただろうと思います。
武田信虎はこの動きを察知し、1515年に拠点潰しに出たのでしょう。
しかし、大井信達は今川氏親からの援軍を得て、武田信虎を追い返しました。
ここから大井信達は今川氏親に甲斐侵攻を持ち掛け、翌1516年に実現。
今川軍は武田信虎の本拠・川田館付近の戦で大勝し、甲府市内にあった勝山城を占領しました。
その後も今川軍が甲斐各地に侵攻しましたが、武田軍が勢いを盛り返して今川軍を撃退。
1517年に今川軍が甲斐から撃退されると、反・武田勢力は武田信虎と和睦。
大井信達は娘を武田信虎に嫁がせました。
この時嫁いだ大井殿が、武田信玄の母親となります。
その後、1520年に武田信虎は思い切った策に出ます。
それは、甲斐国内の国人衆に、甲府に集住することを要求しました。
これには元・反武田勢力が猛反発し、再び対決することとなりました。
大井信達も反武田の兵を挙げましたが、真っ先に制圧され降伏しました。
駿河からは福島正成が1万5千の兵を率いて侵攻し、武田方となった富田城を攻略。
ここを拠点に、武田軍と甲斐国内で戦を繰り広げました。
しかし、今度は飯田河原の戦、上条河原の戦で武田軍が大勝し、福島正成が戦死しました。
今川軍が撤退すると穴山信風らは降伏し、武田信虎は甲斐統一を達成しました。
その後は歴史に全く登場しなくなるので、武田信虎により破却されたのかもしれません。
所在地:山梨県南アルプス市戸田?
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