2017/10/09
雨鳴城/山梨県南アルプス市
雨鳴城も平安時代末の秋山光朝の城と伝わります。訪問日は2015年4月26日です。

城跡へは県道413号を走り、隆雲寺の所で北へ曲がります。
そこから400メートル弱走ると、左側にこの鳥居が現れます。
ここが登城口となります。

神社への参道はこんな感じで、とてもよく整備されています。
山中の神社は忘れ去られて荒れてる所をよく見ますが、ここは大事にされているようです。

参道を10分程歩くと、こんな所に出ます。
道らしい道が見えませんが、もしかしてここを登るのか?

な~んて思い、iPhone様を取り出して現在地を確認しました。
私はGoogleマイマップに位置と予想ルートを登録して、こんな感じで使っています。
ターゲットはこの谷の右上か・・・

谷は進行方向左側にあり、真正面はこんな感じです。
比高は20メートル程で、斜面はまぁまぁ登れそうな感じです。
これは真っすぐ登るか!なんて、ちょっと覚悟を決めかけました。

いつもの悪い癖が出掛けた時、右側(立ち位置から見て城跡とは反対方向)に道が!
真正面の尾根には、この道から上がって行けました。

右方向への坂道を登り切った所には、小さな神社がありました。
これが登城口にあった鳥居の主の天満宮です。
地図では平林天神社と書かれている所です。

ここから再び城跡方向へ進みます。
尾根は高い方へ向かって真っすぐ伸びています。

神社の所から5分程登ると、地形に変化が現れました。
何となくですが、虎口っぽく見えなくもありません。

右側が何となく崩れてるなぁなんて覗き込むと、かなりの断崖絶壁でした。
中野城の所では載せていませんが、あちらもこんな感じの地形です。
どうやら秋山光朝の城を築く地形の条件は、細尾根を通り断崖に面した所のようです。
敵が攻めて来る方向を限定するためだった感じですね!

そこの虎口っぽい所をどっこいしょと登ると、そこはかなり広い空間でした。
どうやら城内に入ったようです。
端に低い土塁が付けられているのが見えます。

ズンズン奥まで進むと、低い土塁の終点が見えました。
その向こう側がチョット・・・

窪んでいます。
土塁の脇の窪みということで、堀切のようです


その先にもう1つ、地面がボコっと凹んでいるのが見えました。

さっきのよりも深い堀切ですヾ(*´∀`*)ノ

と思いましたが、堀切ではないかもしれません。
反対側から来た道が切通し状に尾根をまたぎ、上に続いています。
たぶんですが、この道を通すために切通しにしただけかもしれません。
国土地理院の地図では、丁度城を横切るように道が描かれています。
堀切?のどちら側にも土塁がありませんし、ここで敵を防ぐような造りにも見えません。
堀切は敵兵の通行を妨害するためのものですからね・・・
私はうかつにもここで引き返してしまいましたが、この先に土橋があります。
そして更にそのまま進むと、この道は中野城へと続いているそうです。
そのため、雨鳴城は中野城の支城だったという説が有力です。
◆歴史◆
秋山光朝の城と伝わります。
秋山光朝は平安時代末期の武将で、甲斐源氏・加賀美遠光の長男です。
南東の麓にある秋山の地を与えられ、秋山姓を名乗るようになりました。
1180年、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、甲斐源氏はいち早く参加。
各地の戦で主力となり、源頼朝の平家討伐に多大な功がありました。
しかし、それが源頼朝には脅威に映ったようです。
秋山光朝は弟・小笠原長清とともに、平家とはかなり親しい間柄でした。
しかし、源頼朝へ味方する時期がズレ、兄弟の間で処遇に天地の差が開きました。
秋山光朝は京に在って、なかなか平家討伐軍には参加しませんでした。
最終的には源氏方として参戦しますが、平重盛の娘を正室に迎えていました。
そのため、源頼朝は秋山光朝が従軍していた大将・源範頼に
「秋山光朝は平家や木曽に味方する悪者だから、領地など与えてはいけない」
と、1185年に手紙を送っているそうです。
その後、源頼朝は強大過ぎる甲斐源氏分断に乗り出し、秋山光朝は討伐されました。
といっても、その時期が???ですが・・・
地元の伝承では、鎌倉幕府軍に攻められた秋山光朝は、雨鳴城で自害したと伝わります。
ココがその地である可能性が高いですが、北西にある中野城も雨鳴城と呼ばれる事があります。
地名の由来は、雨が降ると山が「鳴る」ことに由来するそうです。
特に夏場は雨が降る前に必ず山鳴りがするそうです。
これを秋山光朝の霊の仕業だ、なんて言う人もいるとかいないとか。
現在でも秋山光朝を偲ぶ「雨鳴太鼓」や「ああ雨鳴山」という民謡が伝わっています。
所在地:山梨県南アルプス市落合
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