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菅沼城/山梨県身延町

菅沼城跡は中学校になっています。
訪問日は2014年11月16日です。

【写1】菅沼城

城跡には中富中学校があります。
目印がとてもハッキリしているので、道には迷いませんでした合格

【写2】菅沼城

城跡とは言え学校。
訪ねてみると、入りヅライ雰囲気の所が多々あります。
ここはそんな事は無く、入口から塀も無くいきなりグラウンドになっています。
オープンな所なので、躊躇わずに城址碑の前まで進めました。
流石に授業や運動会やってる最中は憚られるでしょうけど。


◆歴史◆

1582年、菅沼定政により築かれました。

菅沼定政は徳川家康の家臣で、それまでの活躍が認められて1万石でここの主となりました。
1586年に徳川家康が上洛すると、幼少の徳川秀忠の代わりに浜松城の守将となりました。
そして1590年、徳川家康が関東に移ると、下総国守谷へ移っています。

菅沼定政ってどんな人だったんだろう?って気になりますよね?
ちょっとググってまとめると、以下のような感じです。

1550年、美濃国多芸郡の明智定明の子として生まれました。
1552年、美濃守護・土岐頼芸と斎藤道三の争いに巻き込まれ父が討死。
父親を討ったのは、その弟・明智定衡だそうです。
居城も御嵩城主・小栗教久に襲われたため、母親の実家である菅沼家に落ち延びました。
そこで母親は奥平貞勝へ再嫁し、おじ・菅沼定仙の養嗣子となりました。
1564年、徳川家康に仕え、菅沼藤蔵と名乗るようになります。
1582年、歴戦の功により、甲斐国切石に1万石を与えられました。
この時に亡き父の跡を継いで明智定政と改名したなんて書かれていますが・・・
本能寺の変の直後なので、それは無いんじゃないかと思います。
1586~90年、徳川秀忠の代わりに浜松城の守将となります。
1590年、徳川家康の関東移封に従い、下総国守谷へ移ります。
1593年、徳川家康の命により、土岐頼芸の名跡を継いで土岐定政に改名しました。
1597年、47歳で世を去りました。

意外や意外、美濃出身の土岐氏の一族だったんですね。
「明智」というとアノ人を思い浮かべますが、祖父同士が兄弟だった説があるそうです。
明智光秀も前半生が不明なままですが、もしかしたら一緒に遊んでいたかもしれませんね。


所在地:山梨県南巨摩郡身延町寺沢(中富中学校)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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