2017/10/01
波木井城/山梨県身延町
波木井城は南部氏が奥州へ移った後に残った南部一族の城でした。訪問日は2014年11月16日です。

城跡へは、国道52号の「身延バイパス北」交差点で曲がります。
ぐるっと国道をくぐってすぐ右折し、そのまま高い所を目指します。
かなり細い道ですが、だいぶ登った所にこの案内があります。
直進した突き当りが城跡で、左へ進むと身延山に至ります。

その突き当りに、波木井城の城址碑と説明板があります。
背後の段々になっている畑が曲輪の跡ですが、ここで見られる遺構はこれだけです。
実は唯一虎口が遺構として残っているのですが、ここではなく身延山へ向かう道にあります。

現地説明板の図(拡大)
せっかくなので、説明板の図を頂戴致しました。
城にまつわる地名が結構残っています。
遺構は無くても「今どうなってんだ?」ぐらいは見ておけば良かったです。
◆歴史◆
波木井氏の城でした。
波木井氏は南部氏の一族です。
平安時代末の1189年に南部光行は奥州へ移りましたが、三男・南部実長が残りました。
その後、南部実長は波木井に館を構え波木井実長とも呼ばれますが、ここではないようです。
南部実長は奥州にも領地があり、長男・南部実継は根城へ移り根城南部氏の祖となりました。
波木井には南部実長の四男・波木井長義が残り、戦国時代まで続きました。
南部氏館の所では1392年の南北朝合一により、南部氏は甲斐から奥州へ移ったと書きました。
それはあくまでも南部氏本家についてで、波木井氏はそのままこの地に残っていました。
この時に南部氏の支配していた河内地方に武田氏一門の穴山氏が入り、領主となりました。
大永年間(1521~27年の間)に廃城となりました。
1521年に今川氏親が福島正成を大将として甲斐へ侵攻しました。
福島正成は甲斐中心部まで進撃しましたが、武田信虎の反撃に遭い11月に撃退されました。
この時、波木井義実が今川軍に内通したとして、後に武田信虎に攻められ落城しました。
気になるのは、なぜ福島正成が一気に甲斐の中心部まで進軍出来たのか?でした。
この辺り一帯は当時穴山氏の支配地域でしたが、今川氏親に従っていたようです。
なので、波木井義実も穴山氏に従っていた可能性があります。
穴山信風は1515年に今川軍が甲斐に侵攻した際にも、今川軍に味方していました。
その父・穴山信懸は北条早雲に太平記を借りるなど、その頃から親交があったようです。
穴山信風は武田信虎に攻められると降伏し、以後は従ったそうです。
甲斐中心部で今川軍が撃退されたのが11月でしたが、穴山信風が降伏したのは年内でした。
そのため、ここが武田軍に攻められ落城したのも1521年の内だったと思われます。
所在地:山梨県南巨摩郡身延町波木井
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