2017/09/15
葛谷城/山梨県南部町
葛谷城は消滅し、石碑だけが道端にあります。訪問日は2014年11月16日です。

城は静岡県と山梨県の県境の山にありました。
現在はその山が消滅してしまい、石碑だけがあります。
その場所がこの近くです。
・・・県境ですからw

国道469号を静岡から山梨方向に向かう左側に、石碑のある空き地があります。
奥に石碑がありますが、立入禁止のため近くで見ることが出来ません


上の写真の石碑部分を拡大してみました。
噂では、一の曲輪にあった武田信玄慰霊碑と称名碑、説明の書かれた石碑があるそうです。
ここからでは文字が判読できないため、ふ~ん、そうなのかと頷くしかありません。

すぐ近くには、こんな山の残骸があります。
削られる前の山に、土塁と堀で囲まれた立派な城跡があったそうです。
長らく烽火台と噂され、消滅直前の発掘調査で発覚したそうですが・・・
私もそんな所を世間の注目が浴びる前に見つけてみたい!と燃えるのでした

◆歴史◆
1515年頃、今川氏により築かれたと考えられています。
当時の今川氏当主は今川義元の父・今川氏親です。
今川氏親は武田信虎と家督を争った大井信達に味方し、この年、甲斐へ出兵しています。
今川軍は甲府市内の勝山城を一時占拠し、和睦後も何度か甲斐へ出兵しています。
武田信虎と今川氏との争いは、1536年に今川義元が家督を継ぐまで続きました。
両者が同盟した後、役割を終えて一時廃城になったものと思われます。
1567年頃、武田信玄により再利用されました。
武田信玄は今川義元と同盟を結び、次の代の今川氏真とも同盟を継続していました。
しかし、1565年に武田義信を自害させ、1567年にはその正室・嶺松院を今川家に帰らせました。
武田軍が駿河に攻め込むのは1568年末ですが、嶺松院を帰らせた頃には城が築かれていました。
駿河に攻め込んだ武田軍はあっさり駿府を占領しましたが・・・
今川氏真と同盟を結んでいた北条氏康が動き、武田軍は一時撤退しました。
北条軍は駿河の薩埵峠から東を占領し、武田軍とのにらみ合いが続きました。
しかし、1571年に北条氏康が没すると状況は一変します。
跡を継いだ北条氏政は武田信玄と和睦し、同盟を結びました。
この頃までは城として使われていたと思われます。
1990年から発掘調査が行われました。
城のあった山を開発することとなり、その前に南部町が発掘調査を行いました。
それまでは、街道沿いの山上にあった烽火台の1つだったと考えられていましたが・・・
堀や土塁を備えた本格的な城だったことがわかりました。
だからといって開発が止まる訳でもなく、主郭にあった石碑が現在地に移されました。
所在地:山梨県南巨摩郡南部町十島
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