2017/09/10
谷村城/山梨県都留市
谷村城は何も残っていませんが、小山田氏の本拠地でした。訪問日は2014年11月15日です。

城跡は市役所や小学校となっており、遺構は何もありません。
道端に城址碑があるだけです。

でもこの城址碑、フェンスが近過ぎてなかなか撮りづらいです。
もうちょっと離してくれるといいのですが・・・

これが精一杯です


ちょっとモヤモヤした状態で振り向くと、もう1つ石碑がありました。
直感的に何かを感じてワラワラ近寄ってみると・・・

同じデザインの陣屋跡の石碑でした。
何も残っていませんが、ここが郡内地方の中心であり続けた証拠ですね!
◆歴史◆
1532年、小山田信有(越中守)により築かれました。
この頃の小山田氏は、かなり武田信虎寄りでした。
北条氏綱や今川氏輝の後見・寿桂尼と対立し、猿橋や吉田などで戦っています。
そんな中、1530年に本拠地の中津森館が火災のため焼失してしまいました。
この時に新たな本拠地として築かれたのが、都留市のど真ん中の谷村城です。
谷村城は、川を挟んですぐ西にある勝山城を詰城としています。
すぐ近くで戦が続いたので、防御力upを図ったのかもしれません。
1582年、小山田氏が滅びました。
武田勝頼が織田信長に攻められ、天目山で最後の抵抗をして滅びました。
その直前、武田勝頼は甲斐で一番の要害である岩殿城へ向かっていました。
しかし、郡内領への入口を小山田勢に封鎖され、そこで裏切りが発覚した・・・らしいです。
小山田信茂が具体的にどう叛旗を翻したかについては、諸説あるようです。
武田勝頼が討たれた後、小山田信茂は織田信忠に会おうとしました。
しかし、一族もろとも捕縛され、甲斐善光寺で処刑され小山田氏は滅びました。
その後も郡内地方統治の拠点として使用されました。
小山田氏が滅びた後は、織田信長の家臣・川尻秀隆が甲斐に入りました。
しかし、3ヶ月後に本能寺の変があり、甲斐・信濃では武田旧臣らが蜂起しました。
命からがら領地に帰る織田家臣も居ましたが、川尻秀隆はこの混乱の中で命を落としました。
領主不在の甲斐・信濃は空白地帯となり、徳川・北条・上杉が争奪戦を展開(天正壬午の乱)。
甲斐は北条氏政と徳川家康が争い、郡内地方は後北条軍が制圧しました。
しかし、最終的に甲斐は徳川家康の領地となり、郡内には鳥居元忠が入りました。
鳥井元忠ははじめ岩殿城に入りましたが、谷村城を整備し拠点としました。
以後、一国一城令で廃城になった後も陣屋が置かれ、郡内地方の中心であり続けました。
所在地:山梨県都留市上谷一丁目
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