2017/09/03
末次城/鹿児島県鹿屋市
末次城跡には宮比神社があります。訪問日は2016年12月30日です。

城跡にある神社の鳥居です。
真っ赤なのでとても目立ちます^^

宮比神社の社殿です。
すぐ隣にある縁起には、所在地として「末次城内」と書かれています。
また、かつては笈掛大明神と呼ばれており、肝付兼続の名も登場します。
・・・訪ねてみたくなりましたか?

周りを見てみると、土塁らしき土盛りがあります。
神社では社殿の周りをよく盛るので、城の遺構かどうかは?ですが・・・

神社の脇の道まで堀跡っぽく見えてきました!
地図で見ると、ここら一帯が沼沢地に浮かぶ島(微高地)だったように見えます。
山城のように堀切で曲輪を区切ったなんて事はないかもしれませんが・・・
◆歴史◆
楡井頼仲により築かれたと伝わります。
楡井頼仲は信濃出身の源氏で、南北朝時代に日向(志布志)にやって来ました。
南朝方として活動し、主に畠山直顕と戦っていました。
この辺りでは禰寝氏が北朝方であり、やはり楡井氏が兵を率いて戦っていたようです。
おそらくその前線基地として築かれたものと思われます。
南北朝時代に島津氏久が攻め落としました。
『薩摩藩内古城由緒』に、島津氏久が大姶良城に続き末次城も攻め落としたと書かれています。
そして、家臣の山田忠経に末次城を与えています。
この頃の大隅の状況は複雑過ぎてよくわかりませんが・・・
北朝方が畠山直顕、禰寝清成
南朝方が楡井頼仲、肝付兼重
どっちつかずが島津氏久、といった所でしょうか。
大姶良城とも絡むので、そこら辺りを整理すると・・・
・1351年、肝付兼成が禰寝氏の大姶良城・横山城を落とす。
・戦に勝った肝付兼成が西俣へ移動中、禰寝一族の志々目氏に討たれた。
・楡井頼仲が禰寝氏を攻め、大姶良城を奪う。
・楡井氏と禰寝氏の間で大姶良城の争奪戦が繰り返される。
・1357年、楡井頼仲が畠山直顕に敗れ自害すると、島津氏久が攻めて来て大姶良城に入る。
といった流れになります。
肝付氏が奪われた城を楡井氏が奪い、その後を島津氏がさらに奪うという複雑さ。
この三氏は当時、いずれも南朝方で味方のハズでした。
元々肝付氏の城だったのに、なぜ取り返さないんだろうと不思議に思っていましたが・・・
肝付氏では当主・肝付兼重が1349年に没した後、肝付秋兼が継いでいました。
上に登場する肝付兼成は肝付兼重の弟で、彼が大姶良で活動していた事は出て来ます。
しかし、肝付秋兼やその次の代の肝付兼氏はググっても出て来ません。
彼らは畠山直顕や島津氏久に従ったらしく、どうやら積極的には動かなかったようですね。
1544年、肝付兼続が笈掛大明神に息災延命を祈願しました。
いつ頃からかは不明ですが、末次城は肝付氏の城になっていたようです。
神社の縁起には、1544年に肝付兼続が息災延命を祈願した棟札があると書かれています。
城として使われていたのか、既に廃城になり神社になっていたのかは?です

所在地:鹿児島県鹿屋市吾平町下名(宮比神社)
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