2013/05/26
由木城/東京都八王子市
八王子に戻って・・・由木城です^^
▲永林寺山門
由木城跡は現在、永林寺となっています。大変大きなお寺で、訪問当日も多くの参拝者が居ました。

▲永林寺本堂
総門の下から本堂を撮影。参拝者と比べると、その大きさがわかると思います。

▲説明板
お寺の前にある説明板です。お寺についてはよく書かれていますが・・・お寺になる前も知りたいですねw

▲本堂から左に進むと案内があります
本堂から道なりに進むと、写真の案内があります。大きな本堂で裏が見えなかったので、ここが城跡なのかと少し安心でした。

▲お墓の向こうに城跡の表示
本堂の裏は一面のお墓。さすが大きなお寺だけあって、墓地も相当広いです。そのお墓の右前方に「由木城跡」の表示。地形は山の南側に館を設けた殿谷戸形式ですね!

▲城跡への入口
お墓の間を進んで行き、城跡の下へ。急な階段があり、城跡っぽい雰囲気がしてきました!

▲城跡
その階段を登り切ると、かなり広い空間が。山の中腹にある郭といった感じです。これだけまとまった削平地があるとお墓を造りそうなものですが・・・お寺さんが史跡として手をつけずにいてくれた、ということでしょうね。

▲城址碑
その広い「郭」のちょうど真ん中に、立派な城址碑があります。土塁や空堀といった遺構は無いのですが・・・これがあるとテンション上がります^^

▲大石定久像
そしてその更に奥には大石定久像。大石氏の銅像とはマニアックですね!なぜなのかは、後から歴史を調べてみてわかりました。
◆歴史◆
由木城は、由木氏が館を構えていたと言われています。その後、長井氏、大石氏と引き継がれ、最終的には永林寺になりました。
まずは由木氏ですが・・・
(1)西党の西三郎宗貞が由木姓に改め、堀之内に住む(1135~40年の間)
(2)横山党の横山六郎保経が由木姓に改め、下柚木北部に住む(1156~58の間)
の2つの流れがあるようです。両者の関係はわかりませんがw
とても近所なので、横山党が後からわざわざ同じ姓を名乗るのは考えにくいです。推測ですが、西宗貞が近くの有力者である横山氏から養子を迎えたのかもしれません。
その後、城は長井氏が支配するところとなります。横山党から大江氏一族である長井氏へ、ということは・・・
1213年にあった和田合戦ですね。たぶん。横山党はこの戦いで娘婿である和田義盛方として、北条義時を敵に回しました。和田義盛はたいへん人望があり、御家人達はどちらに味方すべきか動揺していたそうです。
そこで北条義時は、まだ幼い将軍に御教書を書かせ、多数派工作に成功。こうして侍所別当・和田義盛とその一族、さらには横山党まで粛清することに成功しました。
横山党の領地を引き継いだのが大江広元です。大江広元はもとは都の下級貴族でしたが、源頼朝に請われて御家人となりました。この大江氏もまた、北条得宗家絡みの戦乱に翻弄されます。
1221年に後鳥羽上皇が倒幕のため挙兵し、承久の乱が起こります。大江広元の嫡男で京都守護であった大江親広は、無理やり上皇方に引き込まれました。
この戦いは幕府方が勝利したため、大江親広は追放されてしまいました。以後、大江氏の嫡流は、幕府方として戦った次男・長井時広の家系となりました。長井氏はその後も鎌倉幕府で評定衆や寄合衆など、代々要職を務めました。
室町時代になると、長井氏は扇谷上杉氏に仕えました。長井氏の事蹟はわからないことが多いのですが・・・滅亡したと考えられているのは、1504年にあった立河原の戦いです。
これは扇谷上杉氏と山内上杉氏との争いで、古河公方、今川氏、そして伊勢宗瑞が絡みます。この乱は長享の乱の中の1つの戦いです。序盤は扇谷上杉氏が優位に戦っていたのですが・・・「立河原」での戦いでは扇谷上杉・今川・伊勢連合軍が圧勝。援軍として戦った今川氏親と伊勢宗瑞は、熱海温泉で静養しながら帰ったそうです。
一方、惨敗を喫した山内上杉氏ですが、越後の長尾能景を頼ってすぐさま反撃を開始しました。大きな戦に勝って安心していた所を急襲され、扇谷上杉氏は壊滅的な敗北を喫しました。この時の戦いで椚田塁を守っていた長井一族は捕らえられ、処刑され滅びました。
この後八王子を支配したのが、山内上杉氏の重臣・大石氏です。大石氏は木曽義仲の子孫を称し、武蔵守護代を務めた程の名家です。大石氏は二宮を本拠としていましたが、この頃に高月城に移ったようです。そして、大石定重の嫡男・定久は由木城を居城としたようです。
この頃の情勢は、後北条氏が相模を完全に手中に収め、武蔵進出を本格化し始めていました。この動きに備え、大石定重は1521年に滝山城を築きました。
定久が滝山城に移ることになり、叔父である一種長純大和尚に城地を譲りました。この時期ははっきりわからないのですが・・・推測ですが、1527年に父・大石定重が没しているので、この時ではないかと思います。そして1532年、永鱗寺が創建されました。
その後の大石氏は・・・1546年、河越夜戦で後北条氏が両上杉氏と古河公方連合軍を撃破。扇谷上杉氏は滅亡し、武蔵はほぼ完全に後北条氏の支配地となりました。大石氏は時流に逆らわず、この時後北条氏の軍門に降りました。
1559年、大石定久は北条氏照を養子に迎え、家督と武蔵守護代を氏照に譲って隠居しました。隠居した定久は、天寿を全うしたとも、自害して果てたとも言われています。
1590年、豊臣秀吉により後北条氏は滅亡。氏照はこの時に兄・氏政とともに自害しました。ただ、定久の実子・定仲と養子・定勝は、ともに徳川家康に仕えました。両者とも八王子千人同心として八王子で暮らしたそうです。
翌1591年、永鱗寺を参拝した徳川家康は、公卿格10万石を授けた上、赤門建立を許可。「名にしよう、永き林なり」と賞賛し、以来「永林寺」と名を改めて今日に至ります。
この改名の由来、調べてみると諸説あるようで
・10万石の御朱印に「永林寺」と書かれており、そのまま記載に従った。
・北条氏の家紋「三ツ鱗」に通じるとして、お寺の方から改めた。
などなど。本意ではないにしても、後北条氏とは縁の深いお寺でしたからね・・・
所在地:東京都八王子市下柚木町(永林寺)
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