2017/09/02
高山城/鹿児島県肝付町
高山城は「こうやまじょう」と読み、大隅の大族・肝付氏の本拠地でした。訪問日は2015年6月13日です。

城跡への入口は、県道沿いにあります。
どちらかと言うと小学校跡の石碑の方が随分と立派ですがw

矢印に従って一番奥まで進むと、高山城の案内図があります。
ここは駐車場になっており、安心して城跡散策を楽しめます。
案内図から城跡への道順が現地には無かったので、写真に書き込みました。

拡大図
ということで、早速いつも通りパクリますw

登城路がここだと確信したのは、こいつを見つけたからでした。
案内図からかなり離れており、ちょっと不親切だと感じました。
元々はあったのか、見落としたのかもしれませんけど


大手口の所からすぐに、こんな風景が待っていました。
よじれる階段、手前に飛び出す土壇、そしてその反対側は登れない土の壁。
こういう凝った虎口を見ると、かなり嬉しくなります

しかも、まだ城跡に入ったばかり。
期待が膨らみます


虎口の上には広い空間があり、球麻屋敷という名前の曲輪があります。
そこにある説明板は大来目神社のもので、城の鎮守だったそうです。
その神社の名の元となった大来目氏は、肝付氏の祖からの縁だとか。

さっきの虎口を上から見た所です。
キチっと残ってる虎口ってイイですね

下から見えた道は球麻屋敷へ通じる道で、本丸への道は土の壁の上に隠れていました。

そこから登城路は、堀底のような坂道を登ります。
途中にある立看板は、大手門跡を示すものです。
周りに何も無いので、この立看板が無ければそれとはわかりません。

坂を登り切ると道が分かれており、寄り道を促す案内が出ています。
そこまで言われては仕方ありません(`・ω・´)

山伏城の入口付近の様子です。
ちゃんと手前で折れていて、上から狙い撃ちに出来る造りになっています。

曲輪の中は、まぁ、ちゃんと平らになっていますw
書かれていた説明は、山伏がココに詰めていたのだとか。
もうちょっと洒落た名前付けてあげても良かったんじゃないでしょうかw

元の登城路に戻ると、今度は空堀の案内がありました。
無くても分かりますけど(`・∀・´)
シラスを豪快に削った、鹿児島らしい堀です。

登城路を進むと、またしても寄り道を促す案内があります。
本丸はやっぱり最後じゃけんねw

二の丸の手前には、搦手門跡があります。
上から撮ると、何となくですが門の様子が目に浮かんで来ます。
・・・目に浮かんで来ます、よね?


すぐに着くと思った二の丸ですが、案外距離がありました。
案内図ではぐるっと回り込んで入るように描かれています。
こうやって堀底道を進ませて、上から狙い撃ちする造りのようです。

二の丸です。
ちゃんと平らですw

先ほどの長~い道を戻り、今度こそ本丸へ!

行くはずでしたが、すぐ先に「枡形」なんて、案内が私を誘惑してきました。
意志の弱い私はその魅力に抗しきれず、こうやってまたまた寄り道した次第です。
「枡形」という名前ですが、本丸のすぐ手前にある曲輪のことでした。
もしかしたら往時は高い土塁か木柵かで囲み、敵兵を溜め込む空間だったのかもしれません。

今度こそ、今度こそ本丸へ行くんだ!
という決意を鈍らせそうな案内が、ほんの2、3メートル先にあります。

そんな私はまたしても二の丸の時と同じように長~い坂を登り・・・

本丸に辿り着きましたヾ(*´∀`*)ノ
寄り道は後でちゃんとしますからw

本丸の縁には、このように低い土塁が付けられています。

さて、ここからは寄り道タイムです。
先ほど本丸の手前に案内の出ていた「馬乗馬場」です。
ここは本丸と枡形の裏側にある、かなり真っすぐな堀底のスペースです。
幅が広すぎて、写真では堀底感が全くありませんけど


本丸から先は訪れる人が少ないせいか、道はビッシリと低い草に覆われていました。
しかもお天気は雨

靴の中にタップリ水を含ませつつ、更に奥へと進みます。

本丸の奥にも曲輪があり、その入口はちゃんと手が加えられた虎口になっています。

ここが奥曲輪です。
図ではお城の半分が奥曲輪になっています。
奥曲輪は複数の曲輪をまとめてそう呼んでいますが、本来の名前かどうかは?です。
やや草深いのですが、ちゃんと見れば手前の曲輪群よりも原型を留めているかもしれません。
私は一番手前の奥曲輪で標柱を見つけた所で引き返しています。
◆歴史◆
大隅の大族・肝付氏の本拠地でした。
肝付氏は平安時代の968年、薩摩掾として下向した伴兼行を祖とします。
伴兼行の孫・兼貞は太宰大監・平季基の婿養子となり、島津荘の大半を継ぎました。
そして1036年に平兼貞の子・兼俊が大隅国肝属郡の弁済使となり、肝付姓を名乗り始めました。
肝付氏は高山で暮らしていたようですが、城が築かれた時期はよくわかっていません。
鎌倉時代になると、幕府が任命した地頭が全国各地に配置されました。
島津荘も例外ではなく、島津忠久が任命されました。
大隅国は北条得宗家が守護となり、肝付氏から領地を奪ったため争いとなっています。
室町時代になると島津家が大隅国の守護になりましたが、主な活動拠点は薩摩でした。
それでも南北朝時代になると島津氏が北朝方、肝付氏が南朝方となり、戦うこともありました。
しかし、島津氏は日向の畠山直顕や九州探題の今川了俊と対立し、時々南朝方にもなりました。
離合集散を繰り返しながら、肝付氏は大隅で勢力を保ち続けました。
1566年、島津忠朝に攻められ落城しました。
戦国時代前半の肝付氏は、隣接する島津氏の分家と争いが続きました。
島津家では宗家の継承を巡る争いが続き、分家は離合集散を繰り返していました。
その争いも島津忠良・貴久父子の頃には落ち着き、分家も従うようになりました。
肝付兼続は宗家となった島津貴久の姉を娶り、隣接する島津豊州家と戦っていました。
その島津豊州家もやがて島津貴久に従うようになり、ちょっと歪んだ状況になりました。
その歪みが爆発したのが1558年頃で、肝付兼続は島津貴久と袂を分かちます。
そして島津豊州家を攻め、その領地の大半を奪って肝付氏の最大版図を築き上げました。
しかし、島津貴久の反撃が始まり、1566年には本拠の高山城が落城しました。
肝付兼続は志布志城付近で間もなく没していますが、自害なのかどうなのかが?のままです。
その後は肝付良兼が継ぎ、島津家と一進一退の攻防を繰り広げました。
1574年、島津義久に臣従しました。
島津軍と互角に渡り合っていた肝付良兼が急死すると、異母弟の肝付兼亮が跡を継ぎました。
しかし、古くからの重臣であった伊地知氏や禰寝氏らの相次ぐ離反により、状況は悪化。
1574年、ついに肝付兼亮は島津義久に降伏し、その家臣となりました。
その肝付兼亮は家中では評判が悪く、義母や重臣達により追放。
その後は、肝付兼亮の弟で他家に養子に出されていた肝付兼護が呼び戻されました。
肝付兼護は肝付家中では完全なる傀儡で、実権は全くありませんでした。
1578年、肝付氏は高山城以外の領地を没収されました。
島津軍が日向の伊東氏を攻めた際、行動が消極的だとして内通を疑われました。
肝付兼護は疑念を晴らそうと伊東軍に挑みますが、ガッツリ大敗を喫します。
島津軍は宿敵・伊東氏を滅ぼしましたが、そんな中、肝付兼護は領地を没収されました。
1580年、廃城となりました。
肝付兼護が、領地を薩摩国阿多に移されました。
この時に高山城は廃城になりました。
肝付兼護は島津家臣として仕え、関ケ原の戦で島津義弘を守るため討死したそうです。
所在地:鹿児島県肝属郡肝付町新富本城
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