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岩弘城/鹿児島県東串良町

岩弘城は堀跡が道となっています。
訪問日は2016年12月30日です。

【写1】岩弘城

岩弘城の西側に説明板があります。
この説明板によると、すぐ脇の坂道が堀跡なのだそうです。

【写2】岩弘城

ということでラブラブ

【写3】岩弘城

坂道の右側(南側)が城跡らしいのですが、入れそうな所は民家の入口のみ・・・
ということで、これだけでは飽き足らず、他に何か見れないかと物色します。
北側に折れる道があったので、とりあえずそっちに入ってみました。

【写4】岩弘城

すぐの曲がり角でちょっと藪が切れており、とりあえず突入しました。

【写5】岩弘城

藪の中は藪でした。
ご覧の通り、侵入不可ですw
城跡は道の反対側ですがあせる


◆歴史◆

1411年、平田重宗により築かれたと伝わります。

平田氏は桓武平氏の一族で、薩摩では平田親宗の代から島津氏久に仕えました。
ググってみたら以前書いたヤツがヒットしてビックリ。
1357年に南朝方の祁答院の大村城を島津氏久が攻め落とた時に、平田親宗が登場します。
平田重宗はその子で、島津久豊より串良を与えれられ岩弘城を居城としました。
1411年といえば、島津元久が没して島津久豊と伊集院頼久の争いが始まった年です。
大隅の肝付兼元は伊集院頼久に味方したので、島津久豊が串良を奪ったのかもしれません。
それ以前の串良には津野氏が登場しますが、以後登場しないのはそういう事なのでしょうか。

1495年、島津忠昌に攻められ、平田兼宗が降伏しました。

現地の説明板では「専横な振る舞いが原因で」島津忠昌に討伐されたと書かれています。
島津忠昌というのが引っ掛かったので、当時の状況を整理すると・・・

・先代の島津立久の晩年から、桜島の大噴火で大凶作が5年続いた
・島津立久が没すると、養嗣子の国久ではなく出家していた忠昌が還俗して家督を継いだ
・島津国久(薩州家)、島津季久(豊州家)が叛き、相良氏、伊東氏、渋谷一族も同調
・飫肥の新納忠続と櫛間の島津久逸(伊作家)が反目し、それぞれを本拠へ戻した

とまぁ、これだけ荒れながらよく滅びなかったと感心するばかりです。
こんな前置きがあり、1494年にはついに肝付兼氏が叛き、新納氏と北郷氏も同調しました。
さらには伊東尹祐も侵攻を開始したため、三俣(都城の東部)300町を割譲して和睦しました。
平田兼宗が村田経安とともに討伐されたのは、これよりも後の出来事です。

島津忠昌は、次々に叛いた一族とは守護権力を弱めることで和睦してきた経緯があります。
この時に平田兼宗を討伐したのは、かつて叛いた島津季久の孫・島津忠朝です。
戦に敗れた平田兼宗は領地を奪われ、串良一帯は島津豊州家のものとなりました。
島津豊州家と島津家家老の平田兼宗の間で衝突があり、仲裁出来なかったものと思われます。

その後の岩弘城についてはサッパリわからず・・・ですあせる


所在地:鹿児島県肝属郡東串良町岩弘

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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