2017/07/15
鹿屋城/鹿児島県鹿屋市
鹿屋城は配水場や城山公園として一部分が残されています。訪問日は2015年6月13日です。

鹿屋城は、市街地の真ん中にある台地に築かれていました。
現在は城山公園となっており、南側に立派な駐車場があります。
駐車場から登る西側の坂道です。
道の右側に白い説明板が見えています!

そのちょっと先に、右側に入って行く道があります。
城キチならずとも、ここが城跡への入口だとすぐにわかります。
どうしても先に目が行くのは、道が通されている堀です。
ここは本丸(左)と今城(右)を隔てる堀跡です。

もちろん、その足元で光るこの子を見落としたりしません


そのまま道を真っすぐ突き当りまで進むと、今城に登る階段に辿り着きます。

本丸へは、途中の開けた所に入ります。

ハッピーターンっぽい形の石碑には「亀鶴城址」の文字が


この広場には、現代風の物見櫓も建てられています。

でも、やはり一番目を引くのは、この城塁?なのか土塁?なのかです。
かなり削られたか形を整えられたかしていますが、雰囲気は伝わります。

登った所から展望台のある広場を見た所です。
端の土塁と見た目が木っぽい柵が、城跡らしさを演じていますね

ただ、ここから上が本丸ですが、工事中のバリケードで入れず残念でした。
◆歴史◆
現地の説明板をベースにググってみました。
尚、戦国時代の伊集院忠棟以前の鹿屋城がココだったかは不明だそうです。
鎌倉時代に津野氏が築いたかもしれません。
『古城主由来記』に「島津久経時代津野四郎兵衛、鹿屋城主」と記載があります。
島津久経は島津氏の3代目で、1225年生まれの1284年没です。
1274年と1281年にあった元寇で筑前で頑張った様子が、絵図として残っています。
竹崎李長の絵図は日本史の教科書に載っているのに

鎌倉武士の姿が綺麗に描かれていた、という事でしょうか。
・・・すっかり脱線していますが、そんな時期だったという事ですw
ただ、津野氏は串良院(すぐ東、ココは鹿屋院)の地頭だったらしいです。
そこにあったお城が鶴亀城、鹿屋城の別名が亀鶴城です。
城主は肝付氏一族の鹿屋氏だった可能性もあります。
正和年間(1312~17年の間)から鹿屋氏が城主となりました。
経緯等いっさいわからずw
肝付氏の一族だそうで、戦国時代に肝付氏が滅びるまでほぼ行動を共にしています。
応永の頃(1394~1427年の間)に島津家中で家督争いがあった時期以外は、だそうですがw
「応永の頃」にあった「島津家の家督争い」は、島津久豊と伊集院頼久によるものです。
1411年、島津元久が跡継ぎ無く没しました。
島津元久には男子は居ましたが、なぜか全員出家させていました。
そして、伊集院頼久の子で娘婿の煕久に島津家の家督を譲ると遺言して世を去りました。
これに納得いかなかったのが島津元久の弟・島津久豊です。
島津久豊は伊東氏の侵攻を防ぐため、兄の命令で日向の穆佐城に居ました。
島津元久の葬儀会場に現れると位牌を持ち去り、そのまま家督を継ぐと宣言しました。
・・・長くなりそうなので、経緯だけ書いた所でカットです。
この両者の争いは1417年に伊集院頼久が降伏することで終結しました。
この争いでは肝付兼元が伊集院頼久に味方したので、鹿屋氏は島津久豊方ですね。
島津久豊との間で個人的に何か繋がりがあったのでしょうか。
肝付氏没落後は伊集院忠棟が城主となりました。
肝付氏は平安時代から続く大隅の大族で、長年島津氏と争い続けていました。
1574年に肝付兼亮が重臣の相次ぐ離反により、島津義久に降伏しました。
ただ、その後も伊東義祐と連絡を取っていた事がバレ、1578年に追放されました。
肝付氏は肝付兼護が家督を継いだものの、高山城1城を除く領地を没収されました。
この時鹿屋の領主となったのが伊集院忠棟です。
伊集院忠棟は鹿屋城に大改修を加え、城下町を整備しました。
1596年、島津久信(相州家)が城主となりました。
伊集院忠棟が都城8万石へ移り、島津久信が城主となりました。
島津久信は島津家の後継者候補の1人になった事があります。
島津義久には男子が無く、後継者の島津義弘の子・忠常にも子がありませんでした。
そのため、島津義久の次女の子であった島津久信に白羽の矢が立ちました。
しかし、これは島津家中でも反対意見があったため実現しませんでした。
島津久信は1605年に居城を垂水城に移し、鹿屋城は廃城となりました。
所在地:鹿児島県鹿屋市北田町(城山公園)
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