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平山城/東京都日野市

平山城は平山城址公園の一角にありました。
公園は城址というよりは城址の裏山ですw

平山城/城址公園の入口
▲城址公園の入口

平山城址公園は案内板や交差点などもあるのですが・・・入口はよくわかりませんあせる何となくこっちの方ヽ(´ー`)ノで走ると、写真の駐車場に辿り着きました。

平山城/土塁?
▲駐車場脇のフェンスの内側には・・・

駐車場から奥へ向かう道の脇にはフェンスが巡っていますが・・・その内側を見ると、何となく土塁っぽく土が盛られています。この道を造った時の改変かもしれませんが、遺構保護のためなのかもしれません。とにかく、何も表示がないので判断がつきません。

平山城/神社入口の虎口っぽい地形
▲神社入口の虎口っぽい地形

さらに奥に進むと、小さな鳥居と祠が見えました。その手前は通路を囲むように土が盛られています。何とな~く虎口っぽい感じはしますが・・・神社側から振り返ると、入口を狭くするような感じに見えました。

平山城/平山季重神社
▲平山季重神社

もういちど向きなおして撮った神社です。本当に小さな祠です。山から突き出た峰の先端部分にあり、北側の平山を見渡す位置にあります。規模から居館や籠城のための城ではなく、物見の施設だっただろうと考えられています。


◆歴史◆

平山氏は関東七党の1つ・西党の一族です。祖先は日奉宗頼で、平安時代に武蔵守として武蔵府中に赴任しそのまま土着しました。その3代後の直季が武蔵国多西郡平山に居館を構え、平山氏を称したのが始まりとされます。平山城が築かれたとしたらこの頃でしょう。

その直季の子・季重が源平合戦で活躍。源義経に従い、熊谷直実と常に先陣争いを繰り広げ、勇名を馳せたのでした。数々の戦いで戦功を挙げ、鎌倉幕府が開かれると、季重は元老に列せられました。

源頼朝が没した後、北条氏が他の重臣の排斥を始めます。この時、畠山忠重や和田義盛などが滅ぼされました。1212年に季重が没した後の平山氏は、目立った活動が見られなくなります。一族の生き残りのため、遁世したのだと言われています。

その後、1416年にあった上杉禅秀の乱では、平山氏は武州南一揆を率いて活躍しました。この時の活躍で檜原谷を与えられ、檜原城を築いて甲斐・武田氏に備えるのでした。

その後、上杉氏が滅ぼされると、平山氏は後北条氏に仕えるようになりました。『小田原衆所領役帳』には平山長寿(氏重)と平山善九郎(綱景)の記載があります。

そして1590年、豊臣秀吉が後北条氏討伐の兵を挙げます。平山綱景は八王子城の太鼓曲輪を守って討死。八王子城が落城した後、平山氏重・氏久父子は檜原城で抵抗を続けましたが落城。氏重父子は千足の地で自刃して果て、平山氏は滅亡しました。『新編武蔵風土記』によると、その後は徳川家康の直轄地となり、代官が置かれました。


所在地:東京都日野市平山6丁目

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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