2017/07/07
西原城/鹿児島県鹿屋市
西原城は市役所支所脇の山上にありました。訪問日は2015年6月13日と2016年12月31日です。

城跡へは鹿屋市役所輝北支所脇の道を登って行きます。
道は山頂まで車が通れるよう、綺麗に舗装されています。
山上に達すると、こんな虎口がお出迎えしてくれます


でも、城キチはそのまま真っすぐ突っ込んだりしません、たぶんw
虎口の手前は腰曲輪になっています。
左側はこんな感じで

右側はこんな感じです。
・・・ハイヾ(*´∀`*)ノ

元々ここが虎口だったかどうかは?ですが、分厚い土塁の間を通ります。

真正面には年季の入った標柱と説明板があります。

そこから振り返ったら、こんな感じに見えます。
虎口って、手前と奥の両方から見ますよね?
・・・・私は見ちゃいます

虎口入る所で、既に写真が6枚進んでます


虎口の左右には、土塁に囲まれた空間があります。
もったいぶらずに言うと、曲輪があります♪
こちらは、虎口から入って左側です。

そして、右側にも同じくらいの広さの曲輪があります。
・・・逆光ですね


実はここは二度訪ねており、1回目は雨降りでした。
なので、この時は逆光ではありません(*^^)v
2回目の時にここに来たことを忘れていたからですが

現場に来てなお思い出せなかったのは、ここだけのヒミツです。

曲輪が複数あると、どうしてもどっちがメインなのか?と気になります。
虎口から右側の方にはあずま屋があり、端っこの木が切られて展望が利きます。
また、虎口脇には石塔が並べられています。
これらは元々ここにあったものではありません。
元町長様が、近隣で藪に埋もれていたものが集めたものです。
元々は縁が無かったのでしょうが、まるで一族のお墓のように見えます^^
◆歴史◆
西原城の東山麓に、旧輝北町役場がありました。
となると、ここが城主様の居館跡か?と普通は思いますが・・・
ここは、城主様一族の菩提寺の般若寺があった場所だそうです。
1181年、図師祐貞により築かれたとされます。
図師氏は藤原一族で、平安時代末頃に当地に土着したと考えられています。
以来、大隅の大族・肝付氏に仕え、19代にわたって城主を務めました。
西原城は肝付氏支配領域の北端の見張り台として機能したようです。
地図で見ると、鹿屋から姶良へ抜ける国道沿いにあります。
昔から交通の要衝だったんですね!
図師氏は1615年まで城主として続いたそうです。
この辺りは島津氏・肝付氏・北郷氏らが争った場所です。
戦国時代にはめまぐるしく領主が代わっており、そこを乗り越えたのは凄い!の一言です。
1877年、西南戦争で官軍が城跡に陣取りましたが、薩軍に敗れました。
背景まで書くと、西原城の何を書いてるのかわからなくなるので省きますw
ザックリ流れを書くと・・・
西郷隆盛が政争に敗れて下野
→西郷隆盛の私学校が大盛況
→明治政府が警戒して監視
→1月、西郷隆盛暗殺計画が露見し、私学校が挙兵(薩軍)
→薩軍は熊本城を足掛かりに陸路で進軍することに
→2月、薩軍が熊本城を包囲
→3月、田原坂の大激戦で薩軍敗退
→4月、八代が官軍に攻略される。薩軍が熊本から撤退。
→7月、都城が官軍に攻略される
→8月、この辺りで一時薩軍が盛り返す
→9月、上山城跡で西郷隆盛が自害
官軍が油断していたところ薩軍の奇襲に遭い、官軍は高隈山へ逃れたのだそうです。
この撤退で官軍の将は、寝間着姿で徒歩で逃げたと伝わります。
所在地:鹿児島県鹿屋市輝北町上百引
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