2017/06/15
馬場城/鹿児島県曽於市
馬場城跡は八幡神社になっています。訪問日は2016年12月31日です。

まずは巨大ランドマークの岩川小学校を目指します。「岩川」という名前を見て、1つ前に見た手取城を思い出しました。地名を名前にしたとすれば、ここが岩川氏の本拠だったのかもしれません。ここの別名は岩川城・岩男城です。「岩男」は後世に改められた地名の「伊訪翁」に由来します。なので、それ以前は岩川城だったのかもしれません。

ということで、小学校の正門脇に、伊訪翁仮屋の跡であることを示す標柱があります。

そのすぐ隣にあるこんもりした小山が岩川八幡神社です。
こっちが城跡です。

真っすぐな階段を上がった所が駐車場です。
ここ、曲輪の跡ですね?

どうしても、端っこの削り残しに目が行きます


さらにもう一段上がった所に、八幡神社の社殿があります。

社殿の裏側も、端っこに削り残しと思われる土の壁があります。遺構は無いってあちこち書かれていますが、ひょっとしますでしょうか?w
◆歴史◆
岩川氏→馬場氏→北郷氏の城だったようです。
岩川氏はググってもサッパリ出てこないので、同族とされる種子島氏で調べてみました。その説明の中では、平清盛の曾孫が種子島に入ったと書かれていましたが・・・別の説も書かれており、そちらでは大隅守護代の肥後氏を祖とするとありました。同族の岩川氏がここいら一帯を支配していたので、こちらの方が信憑性がありそうです。
大元の肥後氏は、平安時代末から鎌倉時代の藤原経房の二男・肥後守時経を祖とします。鎌倉時代は大隅国守護の名越氏(北条氏)に仕え、守護代や地頭代を務めました。鎌倉幕府とともに北条氏が滅ぼされた時、一族の大半が自害したそうです。・・・ということは、島津氏とは犬猿の仲になりそうな一族ですね。
1359年、島津氏久が相良定頼と戦い、この時に岩川氏にも参陣を求めました。しかし、岩川氏は兵を出さず、島津軍は大敗しました。その翌年、島津氏久は報復の兵を出し、岩川氏はつてを頼って落ち延びています。
相良氏というと球磨地方のイメージがありますが・・・この年に日向の北郷を室町幕府から与えられています。そして島津氏久ですが、この頃は南朝に味方していたようです。
この2人の動向だけでも、ちょっと追いかけるとかなり複雑でした。少し前までは、一緒に畠山直顕と戦っていたんですからwちゃんと時系列に調べて書くと、それだけで小説が1つ書けちゃうかもしれません。・・・私は書きませんよ(`・ω・´)w
北郷氏の城に・・・
北郷氏は島津氏の一族で、島津氏久の父の弟である北郷資忠を祖とします。戦功として足利尊氏から北郷300町を与えられ、北郷姓を名乗るようになります。しかし、1359年に島津氏久が南朝に寝返ると従い、北郷の地を没収されました。この時に北郷を与えられたのが、相良定頼でした。島津軍が相良軍と戦ったのは、北郷の地を巡っての事だったのでしょうか。
それから間もない1362年、島津氏久は北朝方に復帰します。経緯はサッパリわかりませんでしたが、都城一帯は北郷氏に戻されたようです。豊臣秀吉の討伐を受けたのち、一時期都城一帯は伊集院氏の領地となりました。しかし、1599年に庄内の乱を起こして没落すると、再び北郷氏が返り咲きました。・・・少し領地は減りましたが

大正3年(1914年)に岩川八幡神社が現在地に移されました。
所在地:鹿児島県曽於市大隅町岩川(岩川八幡神社)
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