2017/06/12
手取城/鹿児島県曽於市
手取城跡は、たぶん何年も誰も訪ねてないのではないか?と思うくらいに荒れています。訪問日は2016年12月31日です。

城跡への入口がとてもわかりづらかったです。
というのも、地図でココだよ!って示されたサイト様がありません。
「作業小屋の手前に標柱があり山の中に入って行く道がある」が、唯一の手掛かりでした。
よくそれで辿り着けたなぁなんて、毎度の事ながら感心します。
迷子レベル高めの私は、御多分に漏れずここでも迷いました。
それっぽい「山に入って行きそうな道」へ入り、用水路脇を進める所まで進みました。
用水路はトンネルに、そして道は途絶え・・・ハズレですw
ということで、迷いに迷って見つけたルートを、地図にバッチリ書き入れましたヾ(*´∀`*)ノ
諸兄のサイト様では入口標柱左側に斜面がありましたが、私が訪ねた時にはありませんでした。
地面が削られたばかりのようで、重機で綺麗に馴らされ、建物が建ちそうな感じがします。
次に誰か訪ねる頃には、また登城口の風景が変わってそうですね


せっかくなので、入口の標柱をアップします。
この道がこのまま通れるよう残してもらえるのか?ですが・・・

よし!見つけた!行くぞ!で進んだ先の風景です。
標柱の所から10メートル程先なんですが・・・wwwww(←草が生えるなんて表現されます)
なんて冗談が頭をよぎる程の荒れっぷりです。
入口の空き地に居たおじ様の視線が痛かった訳が、何となく分かりました

まぁでも真冬だし、私は進みましたけどw

そのさらに先は竹林になっており、レベルが高めの障害物競争のコースみたいになってます。
さすがに運動会ではここまでやりませんか

まだ何とか進める程度だったので、構わずに進みます。

木々が濃くなり薄暗くなると、竹や下草が少なく歩きやすい部分もありますが・・・

明るい所はまぁこんな感じです。
さりげなく写真載せてますが、左側の斜面は城塁です。

おっ!着いたか!で、早速よじ登ります。
高さは3メートル程、、、だったような気がします。
曲輪は幅5メートル程で、奥へ向かって細長く伸びています。

その先端部が急に低くなっており、そこには堀切様が控えておられましたヾ(*´∀`*)ノ

その先の曲輪によじ登ると、真ん中に仕切り壁のような土塁様がヾ(*´∀`*)ノ

その先にまた堀切様が現れます。

三たび城塁をよじ登り、細長い曲輪上を進むと、今度はこれまで以上に落ち込んでいます。
山城の中で堀切を見つける時は、だいたいこんな感じに見えます。

ここが一番大きな堀切様です。
底には城址標柱があります

入口で「本当にこのまま進んで大丈夫なのか?」と不安だっただけに、喜びもひとしおです^^
◆歴史◆
1360年、島津氏久に攻められました。
前年の1359年、島津氏久は相良定頼とこの近くで戦いました。
この時、手取城の岩川氏や蓬原城の救仁郷氏は兵を出さず、島津氏久が敗れました。
翌1360年、島津氏久は報復のため手取城を攻め、岩川氏は城を捨てて落ち延びました。
岩川氏は血縁を頼り、佐多から種子島、屋久島へと逃れました。
・・・わかっているのはこのくらいです

所在地:鹿児島県曽於市大隅町中之内
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