2013/05/25
平山氏館/東京都日野市
今回は平山氏館跡です。訪問日は2013年4月29日です。

▲京王線・平山城址公園駅
平山氏の館は平山城址公園付近にあったとされます。今は何もありませんが・・・

▲石碑
平山氏がここに館を構えていた証として、石碑が建てられています。この碑文は、幕末の剣客さんの筆によるのだそうです。

▲説明板
・・・ということが、この説明板に書かれていましたwここでは館の事よりも、石碑について詳しく書かれています。
◆歴史◆
平山氏は関東七党の1つ・西党の一族です。
祖先は日奉宗頼で、平安時代に武蔵守として武蔵府中に赴任しそのまま土着しました。
その3代後の直季が武蔵国多西郡平山に居館を構え、平山氏を称したたのが始まりとされます。
その直季の子・季重が源平合戦で活躍。源義経に従い、熊谷直実と常に先陣争いを繰り広げ、勇名を馳せたのでした。数々の戦いで戦功を挙げ、鎌倉幕府が開かれると、季重は元老に列せられました。
源頼朝が没した後、北条氏が他の重臣の排斥を始めます。この時、畠山忠重や和田義盛などが滅ぼされました。1212年に季重が没した後の平山氏は、目立った活動が見られなくなります。一族の生き残りのため、遁世したのだと言われています。
その後、1416年にあった上杉禅秀の乱では、平山氏は武州南一揆を率いて活躍しました。この時の活躍で檜原谷を与えられ、檜原城を築いて甲斐・武田氏に備えるのでした。
その後、上杉氏が滅ぼされると、平山氏は後北条氏に仕えるようになりました。そして1590年、豊臣秀吉が後北条氏討伐の兵を挙げます。八王子城が攻め落とされた後、八王子城の守将・横地監物が檜原城に籠りました。檜原城主の平山氏重・氏久父子もともに籠城。横地監物を追ってきた豊臣方と戦闘になりましたが、多勢に無勢で檜原城は落城。氏重父子は千足の地で自刃して果て、平山氏は滅亡しました。
途中から檜原城が本拠地みたいになりましたが・・・『新編武蔵風土記』によると、その後は徳川家康の直轄地となり、代官が置かれました。・・・ということは、それまで平山の地は平山氏の領地だったんですね^^;
平山氏の館の跡には曹洞宗の大福寺がありました。現地の説明板によると、江戸時代には荒れていたようですね。それを見た平山氏の子孫がとても悲しみ、修復されたそうですが・・・明治15年に廃寺となりました。
所在地:東京都日野市平山5丁目
東京都の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント