2017/06/11
宝寿庵城/鹿児島県曽於市
宝寿庵城跡は、ちょっとわかりませんでした
訪問日は2016年12月31日です。

県道500号の道沿いに、城址碑と説明板があります。
ここまではok!

せっかくなので、反対側からも。
この2つが並んでいると、城キチなら間違いなく反応しますよね?


説明板と城址碑に挟まれた道です。
きっとこの奥に何かがある・・・んでしょうか?
どこが何なのか見当もつかず、どこを見ようかと右往左往しました。
それを見て来て紹介するのがお前だろ?なんて言わないで下さいwww
たまにはこんな事もあるんです


もうやけくそで、テキトーに竹藪に突入してみました。
しかし、何も見つけられずT_T
確かに城跡として紹介され、表には説明板と城址碑までありましたが・・・
Google Mapで航空写真を眺めていると、さっきの道が城の真ん中を走る堀のように見えました。
・・・当たってますでしょうか?

◆歴史◆
このお城についてググってみても
「末吉城より前からあった」と
「島津家当主がたびたび滞在した」
としか出て来ず。
説明板にちょっと色々書いてあったので、1つずつ拾ってみます。
「いつ頃構築されたかということはわからないが、湯之尻の末吉城(亀鶴城)より前にあった城である」
末吉城は1197年に稲村重家により築かれたとされます。
鎌倉幕府が出来てから5年後ですね!
「稲村」姓と「重」の字から、秩父一族出身・・・のような気がします。
何にもわかりませんけど

それより前からあったということは、平安時代の郡司の拠点だったと思います。
末吉がすぐ南なので、末吉の中心地が元々はここだったということなのでしょう。
「島津藩主が度々滞在した」ということで、以下が書かれています。
「第八代島津久豊は伊東との戦いの時」
島津久豊は島津元久の弟です。
島津元久は今川了俊が失脚した1395年、日向に侵攻して穆佐院を伊東氏から奪いました。
伊東氏は伊豆から日向に下向した一族で、今川了俊に味方し日向守護職を狙っていました。
・・・長くなりそうなのでザックリ書きます

1401年、島津元久は穆佐院を伊東祐安から守るため、弟の島津久豊を配置しました。
しかし、島津久豊は伊東祐安の娘を娶って和睦。
これが元で、島津久豊は兄と対立するようになりました。
ココまでで宝寿庵城に滞在しそうな所は無いようですね。
1411年、島津元久が没すると、島津久豊と伊集院頼久が家督を巡って争い始めました。
島津久豊は、背後の伊東氏は心配無いと思っていたかもしれませんが・・・
1412年、伊東祐安の嫡男・伊東祐立が穆佐院に侵攻し、袂を分かちました。
それでも島津久豊は薩摩での戦いを優先し、1417年に伊集院頼久が降伏。
1422年には総州家を追放して、薩摩の統一を果たしました。
すると、1423年に伊東氏に反撃を開始し、大淀川以南を奪還しました。
下の地図ですぐ右を流れているのが大淀川です。
この辺りでは南から北へ流れていますが、ザックリ言うと、宮崎市より南ですね!
一気に日向国の南1/3を取り返しています。
島津久豊がココに滞在したとすれば、この戦いの序盤戦だったと思われます。
「第九代島津忠国は百姓一揆の関係で」
島津忠国は島津久豊の子で、弟の島津好久と対立しました。
守護職の重責が手に負えず弟に丸投げし、でも次は自分の子に継がせてwという感じです。
家臣団は島津忠国(の子)派と島津好久派に分かれ、熱く交渉を続けていました。
この家臣団の派閥を「一揆」と呼んでいます。
説明板の「百姓一揆」はちょっと「本当かな?」と思いますが、無かったとは言えませんw
軍事衝突に発展するのは、1441年に将軍がこの争いに介入してからのようです。
将軍の弟・大覚寺義昭が謀反を企て、吉野→四国→日向へと流れて来ました。
将軍は「守護」の島津忠国に大覚寺義昭討伐を命じ、島津家中は討伐派と反対派に割れました。
大覚寺義昭は日向では、けっこうな人気者だったようです。
しかし、島津忠国が大覚寺義昭討伐を躊躇うと、島津好久派が将軍に讒言しました。
ここから切った貼ったが始まり、最終的には大覚寺義昭は自害に追い込まれました。
・・・「切った貼った」が面白そうなのですが、ちゃんと書くとかなり長くなりそうです

この兄弟喧嘩では、島津忠国が東側の大隅・日向、島津好久が西側の薩摩で支持されました。
やっぱり「一揆」は、「家臣団の派閥争い」の事じゃないか?と思います。
「第十一代島津忠昌は伊作逸久の乱の時」
島津忠昌は島津忠国の孫で、伊作逸久は島津忠国の子です。
ということで、叔父さんが甥っ子に逆らったという事です。
・・・表現がちょっとアレですね

発端は、島津忠国の跡を継いだ島津立久が1474年に没した事です。
その頃は桜島の大噴火が5年続き、薩摩・大隅では大凶作で困窮しました。
島津忠昌はうまく対応することが出来ず、次第に家臣の心が離れて行きました。
1476年には、薩州家と豊州家が挙兵し、渋谷一族や相良氏・伊東氏も同調しました。
翌年に和睦したものの、守護権力がかなり抑制される内容でした。
こんな感じの騒動が定期的に繰り返される、とても不安定な状況でした。
そんな中、1484年に事件が起きます。
飫肥の新納忠続が島津忠昌に、櫛間の伊作逸久を伊作へ戻すよう訴えました。
新納忠続も伊作逸久も島津家臣で、伊東氏の南下を防ぐ役割で日向に配置されていました。
しかし、隣同士に配置されていたものの、とても仲が悪かったのです。
このお願いをされた島津忠昌は、二つ返事でokしちゃいましたが・・・
当の伊作逸久は猛反発し、敵だったハズの伊東祐国と同盟を結んで謀反を起こしました。
新納忠続を助けるよう命じた島津忠廉まで叛旗を翻す有様で・・・
1485年になり、島津忠昌は病を押して出陣し、伊東祐国を討ち、伊作逸久を降伏させました。
やる時はやるようですw
この戦が終わると、伊作逸久を伊作、新納忠続を志布志へ戻しました。
島津忠昌がココに来るとしたら、この時でしょうね。
ただ、こんな感じであちこちで家臣が謀反を続けたので、1494年に自害してしまいました

「第十五代島津貴久は島津伊東両氏領地係争の時」
島津貴久と伊東氏の争いだと、1560年と思われます。
この頃は、伊東義祐が度々豊州家の飫肥城を攻めていました。
そのため、豊州家の島津忠親は島津義弘を飫肥城に呼び寄せ、養子としました。
また、島津貴久を通じて将軍・足利義輝に伊東義祐との和睦の仲介を要請しました。
これを受けて、幕府政所執事の伊勢貞孝が日向に下向しています。
この時の和睦の三者会談が、ココで行われました。
その結果は、伊東義祐が従わず不調に終わっています。
その後、島津貴久は伊東義祐と同盟を結んでいた肝付兼続に攻められ苦戦。
1561年には、弟・島津忠将が廻城の攻防戦で討死しています。
そのため1562年に島津義弘が呼び戻されると、飫肥城は伊東軍により陥落しました。
伊東義祐と島津家が次に和睦するのは1568年ですが・・・
この時すでに島津貴久は隠居し、島津義久が家督を継いでいました。
宝寿庵城がその後どうなったのかは???です

所在地:鹿児島県曽於市末吉町深川
鹿児島県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント