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龍虎城/鹿児島県曽於市

龍虎城は公園化でかなり破壊されていますが、残ってる部分もあります。
訪問日は2016年12月31日です。

【写1】龍虎城

龍虎城跡は城山公園になっており、南側に大きな駐車場があります。
メイン部分は最後にということで、まずは左側の桜城跡を見て来ました。
駐車場から見ると、虎口か堀底を進むように見えますが・・・
桜城は東側の半分程が削られて消滅しています。
ここはその断面です。

【写2】龍虎城

登る途中、遊具の置かれた公園があります。
こうやって見ると、曲輪がそのまま使われたようにも見えます。
ただ、あまりに面影が無さ過ぎて、そうじゃないのかもしれませんがあせる

【写3】龍虎城

登り切った所には体育館があります。
ただ、どうしても端っこに目が行ってしまいます。
土塁の残り・・・ではありませんねあせる

【写4】龍虎城

体育館側から龍虎城の主要部を見ます。
真ん中の木々が茂った所が池の上城、中丸城と本丸です。
その手前のグラウンドの右半分に二の丸がありました。
二の丸はごっそり丸ごと消滅しています。

【写5】龍虎城

駐車場に戻り、今度はお城の主要部を目指します。
グラウンドの入口から見て、右奥の木々の茂った所へ進みます。

【写6】龍虎城

公園の一番奥から入って左側に、ちょっとこんもりした所があります。
ここが池の上城で、虎口が残っています。
せっかくの虎口ですが、草深くて中に入れず・・・

【写7】龍虎城

そこから右を向くと、堀を挟んで2つの曲輪が見えます。
左側が本丸で、右側が中丸城です。

【写8】龍虎城

本丸と中丸城の間の堀です。
昔はもっと深かったのかもしれませんが・・・
それでも十分見応えはあります恋の矢

【写9】龍虎城

まずは奥の本丸へ。
中央に大きな忠魂碑があります。
これが城址碑だったら・・・w

【写10】龍虎城

橋を渡った所が中丸城です。
本丸の前にある三日月形の曲輪です。
何となくですが、馬出し的な役割を果たしたように見えます。

【写11】龍虎城

中丸城から本丸側を見た所です。
間の堀はかなり深いです。
ここもシラスをガッツリ削った鹿児島特有の造りだったんですね!
この堀底道を下った先に、よく紹介されている門がありますあせる


◆歴史◆

財部六郎正信により築かれたと伝わります。

江戸時代に書かれた『三国名勝図会』に載っているそうですが・・・
どのような人物なのかは「詳らかならず」だそうですw
わからないとついムキになって、ガツガツ調べてドツボに嵌まります。

「財部氏」でググると、土持氏の一族がヒットしました。
土持氏は日向北部を中心に栄えた一族で、宇佐神宮の荘官として豊前からやって来ました。
その一族の中に、財部城を本拠とした財部土持氏がいたそうです。

龍虎城の別名は「財部城」なので、ヒットしたか?と一瞬ヌカ喜びしましたが・・・
地理的に遠すぎないか?と思って地図を見てると、どうやら高鍋の事のようでした。
あまりに海っぺり過ぎて誤植なのかと思いましたが、そういう事で別のお城でしたあせる

北郷氏の城でした。

北郷氏は南北朝時代の島津家4代・島津忠宗の六男・北郷資忠を祖とします。
兄弟は島津、和泉、佐多、新納、樺山、北郷、石坂を名乗り「七人島津」と呼ばれました。
聞いたことのある名前がチラホラありますが、島津一族だったんですね!
北郷資忠は庄内の北郷を領地として与えられ、北郷姓を名乗ります。
・・・ということは、それまでは南朝方の領地だったという事ですね。

北原氏や新納氏に奪われていた時期があります。

北原氏は肝付氏の庶流で、西にある真幸院(えびの周辺)を本拠としていました。
新納氏は北郷氏と同じ島津氏の庶流で、南東の志布志を本拠としていました。
飫肥へ移された時期もありましたが、北郷氏と争ったのは志布志に居た頃です。
北郷氏は彼らに敗れて次第に勢力を弱め、本拠の都城を辛うじて守る時期がありました。

ちゃんと調べようとするとかなり複雑で・・・
ハッキリ書かれていたのは、1486年に新納忠続が島津忠昌から与えられたことです。
この頃に新納忠続と敵対していたのは島津久逸です。
新納忠続は飫肥、島津久逸は櫛間と隣接していましたが、とても仲が悪かったようです。

・・・長くなりそうあせる

この争いは島津宗家、島津豊州家、新納氏と島津伊作家、伊東氏、北原氏が戦いました。
その結果、島津宗家側が勝利し、北原氏が支配していた財部が新納氏に与えられました。

1537年、北郷忠相が奪還しました。

伊東義祐と新納忠勝が争うと、その隙に龍虎城を含む財部一帯を奪い返しました。
北郷忠相は当主が相次いで没し混乱中の伊東氏の領地を奪い、勢力を拡大していました。
新納忠勝とも仲が悪かったので、まさに漁夫の利ですね!

1595年、伊集院氏の城となりました。

太閤検地が行われると、北郷氏は祁答院へ移され伊集院忠棟が都城に入りました。
北郷氏は故郷の都城を懐かしみ、この時に祁答院の地名を「宮之城」に変えました。
伊集院忠棟の領地の増え方が異常に多かったので、島津家中からはかなりの反発が出ました。

1599年、庄内の乱で伊集院氏が没落しました。

伊集院忠棟が島津忠恒に殺されると、子の伊集院忠真が反島津の兵を挙げました。
これが庄内の乱で、島津軍が各地で伊集院氏の城を包囲しましたが、1年近く続きました。
この時、龍虎城には伊集院甚吉が籠城しましたが落城せず、徳川家康の命令で退きました。
乱の鎮圧では旧領回復に燃える北郷軍が大活躍しました。
その結果、北郷氏は都城に復帰出来ましたが、財部は島津宗家の直轄領となりました。

その後、1615年に出された一国一城令により、龍虎城は廃城となりました。


所在地:鹿児島県曽於市財部町北俣(城山公園)

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コメント

無題

敗戦直前の、第2軍第16方面軍を調べサイクリングで行ってました!全て自転車で乗ったまま行ける(^^) でももっと広かったんですね!

Re:無題

>トシraudさん
駐車場の西側(桜城)だけしゃなく、南側の道を挟んだ反対側も城域だったようです。
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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