2017/06/06
上井城/鹿児島県霧島市
上井城跡は下の方は運動公園になっていますが、山上は遺構がよく残っています。訪問日は2016年12月29日です。

よそで道に迷った挙句に違う山に登ったおかげで、すっかり時間をロス。
他にもいくつか見てみたい城跡があったものの、諦め掛けていた時に近くを通りました。
「まだ明るいから」と立ち寄ったのは、陽がとっぷり傾いた18時です。
開けた場所でもすっかり薄暗くなっていたので、ダメ元でした。

後から見たら遠回りでしたが、こんな時は落ち着いていられないんですよね・・・
グルッと回り込む感じで、とにかく高い所を目指しました。
さすがにコンクリートの壁は直登出来ませんのでwww
ここは山中へ入る道のすぐ下にある細長い平地で、曲輪の形そのままっぽい感じでした。

気ばかり急いて、ようやく山に入る道を見つけました。
「まだ・・・行ける・・・かな?」と、半ば無理っぽいとは感じつつ登りました。

そう思って試し撮りしたのがこの写真。
暗すぎてブレるようなら止めようか、という感じです。
日没はとっくに過ぎ、夜になる一歩手前の時間ですから。
それでも、近くを通ると吸い寄せられてしまう悲しいサガです


登り坂がひと段落した所で、道は左へ続いていましたが、少数派が右へ歩いた跡が。
私もそっち派なので、時間が無いのについそっちへ釣られてしまいます。

そちらには細長い曲輪があり、縁に低い土塁がヾ(*´∀`*)ノ
とりあえずの収穫ゲットです。

元の道に戻って進むと、今度はやはり怪しげな雰囲気の場所が。
妙に細くなって、ちょっと下っての土橋っぽい感じです。
ただ、土橋ってあんまり下がらないのですが・・・

近づいてみると、土橋部分は石を積んで通路にしていました。
事前のリサーチでは、堀切を石で埋めた所が数か所あるとのこと。
ということで、どうやら元々は堀切だったようです


さらに進むと、今度は一旦窪んで、その先がクっと上がっている場所が。
窪んだ所の下を覗き込むと、やっぱり石が積んでありました。
手前が堀切で、その向こう側が虎口のようです。
いよいよお城の主要部に近づいて来たようです


堀もいいんですが、凝った造りの虎口もなかなか


道の両脇の削り方から後世の加工かもしれませんが

元々このような形の所を、通りやすくするため削ったのかもしれません。
通りにくい方が、お城本来の仕掛けが分かってよいのですが・・・
それでもキュッキュッとシャープに曲がらされる虎口、いいですね


その先にも無理矢理通した感タップリの段差があり、曲輪の入口だとすぐにわかりました。

この曲輪も奥が一段高くなっており、同じような段があります。

ここがその一番奥です。
平たん地の奥にさらにちょっとだけ高い所があります。
ここは奥へ回り込むと上がることができ、小さな祠がありました。
ということで、ここが主郭のようです。
何とか写真が撮れる明るさの内に辿り着くことが出来ましたヾ(*´∀`*)ノ
ただ、すぐにすっかり陽が暮れて、真っ暗な山道を恐る恐る下りましたけど

◆歴史◆
諏訪氏の城でした。
1548年、諏訪為秋が島津忠良に降伏し、薩摩国吉永(元南郷)の地頭に移されました。
諏訪為秋は島津家に仕えるようになってから、上井姓を名乗るようになりました。
その孫が有名な上井覚兼です。
「諏訪氏」というと、信濃国にある諏訪大社の神職の一族が有名です。
ググってみると、上井氏もこの一族なのだそうです。
なぜ大隅に信濃の人が?なんて思いましたが・・・
色々調べてみると、島津家の祖・島津忠久が関係ありそうでした。
島津忠久は島津荘下司職の他に、信濃国塩田荘の地頭にもなっていました。
この時に諏訪神社にお参りするようになったそうです。
1221年の承久の乱で功を立てると、ますます諏訪神社を敬ったそうです。
その約100年後、大隅守護の島津氏久がついに諏訪神社を勧請しました。
諏訪氏の一族が大隅に移るとしたら、こんな時くらいしか思い付きません。
こんなこと書いてるの私くらいなので、こじつけ以外の何者でもないでしょうけど

じゃぁどうなんだろう?と某大聖典を思い出し、開いて見ました。
すると、そこには「踏入五郎弘氏が領し、子孫が上井氏を称した」とありました。
答え合わせどころか、諏訪氏と踏入氏の関係は?と、新たな疑問が生じたのでした。
上井氏は江戸時代に諏訪姓に復姓したので、諏訪一族には違いないと思うのですが・・・
ご先祖様の「踏入五郎弘氏」については、ググってもサッパリ何もわかりませんでした

島津忠将の城となりました。
本田薫親を破り諏訪為秋を薩摩国永吉に移すと、上井は島津忠将の領地となりました。
島津忠将は島津忠良の子で、島津貴久の弟です。
1561年に廻城を巡る戦で島津忠将が戦死すると、子の島津以久が城主となりました。
島津以久は幼くして父を失ったため、島津貴久に育てられました。
そのせいか、1578年にあった耳川の戦では、敵陣で暴れ回り戦功第一とされました。
島津貴久の子は猛将ぞろいですが、どんな育て方したんでしょうね?w
1587年の九州征伐の後の事がちょっと???ですが・・・
某大聖典では、島津以久が子に清水城を譲り、自らは上井城を居城としたと書かれています。
一方、Wikipediaでは島津以久は、出典付きで種子島へ移り住んだと書かれていました。
・・・どちらが本当なんでしょう?www
他のサイト様では、上井城は九州征伐の後は荒れたと書かれていたりしました。
某大聖典の方が、ちょっと分が悪そうな感じです。
所在地:鹿児島県霧島市国分上井
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コメント
無題
2017/06/07 16:53 by トシraud URL 編集