fc2ブログ

上井城/鹿児島県霧島市

上井城跡は下の方は運動公園になっていますが、山上は遺構がよく残っています。
訪問日は2016年12月29日です。

【写1】上井城

よそで道に迷った挙句に違う山に登ったおかげで、すっかり時間をロス。
他にもいくつか見てみたい城跡があったものの、諦め掛けていた時に近くを通りました。
「まだ明るいから」と立ち寄ったのは、陽がとっぷり傾いた18時です。
開けた場所でもすっかり薄暗くなっていたので、ダメ元でした。

【写2】上井城

後から見たら遠回りでしたが、こんな時は落ち着いていられないんですよね・・・
グルッと回り込む感じで、とにかく高い所を目指しました。
さすがにコンクリートの壁は直登出来ませんのでwww
ここは山中へ入る道のすぐ下にある細長い平地で、曲輪の形そのままっぽい感じでした。

【写3】上井城

気ばかり急いて、ようやく山に入る道を見つけました。
「まだ・・・行ける・・・かな?」と、半ば無理っぽいとは感じつつ登りました。

【写4】上井城

そう思って試し撮りしたのがこの写真。
暗すぎてブレるようなら止めようか、という感じです。
日没はとっくに過ぎ、夜になる一歩手前の時間ですから。
それでも、近くを通ると吸い寄せられてしまう悲しいサガですあせる

【写5】上井城

登り坂がひと段落した所で、道は左へ続いていましたが、少数派が右へ歩いた跡が。
私もそっち派なので、時間が無いのについそっちへ釣られてしまいます。

【写6】上井城

そちらには細長い曲輪があり、縁に低い土塁がヾ(*´∀`*)ノ
とりあえずの収穫ゲットです。

【写7】上井城

元の道に戻って進むと、今度はやはり怪しげな雰囲気の場所が。
妙に細くなって、ちょっと下っての土橋っぽい感じです。
ただ、土橋ってあんまり下がらないのですが・・・

【写8】上井城

近づいてみると、土橋部分は石を積んで通路にしていました。
事前のリサーチでは、堀切を石で埋めた所が数か所あるとのこと。
ということで、どうやら元々は堀切だったようです恋の矢

【写9】上井城

さらに進むと、今度は一旦窪んで、その先がクっと上がっている場所が。
窪んだ所の下を覗き込むと、やっぱり石が積んでありました。
手前が堀切で、その向こう側が虎口のようです。
いよいよお城の主要部に近づいて来たようですラブラブ

【写10】上井城

堀もいいんですが、凝った造りの虎口もなかなか恋の矢

【写11】上井城

道の両脇の削り方から後世の加工かもしれませんがあせる
元々このような形の所を、通りやすくするため削ったのかもしれません。
通りにくい方が、お城本来の仕掛けが分かってよいのですが・・・
それでもキュッキュッとシャープに曲がらされる虎口、いいですねドキドキ

【写12】上井城

その先にも無理矢理通した感タップリの段差があり、曲輪の入口だとすぐにわかりました。

【写13】上井城

この曲輪も奥が一段高くなっており、同じような段があります。

【写14】上井城

ここがその一番奥です。
平たん地の奥にさらにちょっとだけ高い所があります。
ここは奥へ回り込むと上がることができ、小さな祠がありました。
ということで、ここが主郭のようです。
何とか写真が撮れる明るさの内に辿り着くことが出来ましたヾ(*´∀`*)ノ
ただ、すぐにすっかり陽が暮れて、真っ暗な山道を恐る恐る下りましたけどあせる


◆歴史◆

諏訪氏の城でした。

1548年、諏訪為秋が島津忠良に降伏し、薩摩国吉永(元南郷)の地頭に移されました。
諏訪為秋は島津家に仕えるようになってから、上井姓を名乗るようになりました。
その孫が有名な上井覚兼です。

「諏訪氏」というと、信濃国にある諏訪大社の神職の一族が有名です。
ググってみると、上井氏もこの一族なのだそうです。
なぜ大隅に信濃の人が?なんて思いましたが・・・

色々調べてみると、島津家の祖・島津忠久が関係ありそうでした。
島津忠久は島津荘下司職の他に、信濃国塩田荘の地頭にもなっていました。
この時に諏訪神社にお参りするようになったそうです。
1221年の承久の乱で功を立てると、ますます諏訪神社を敬ったそうです。

その約100年後、大隅守護の島津氏久がついに諏訪神社を勧請しました。
諏訪氏の一族が大隅に移るとしたら、こんな時くらいしか思い付きません。
こんなこと書いてるの私くらいなので、こじつけ以外の何者でもないでしょうけどあせる

じゃぁどうなんだろう?と某大聖典を思い出し、開いて見ました。
すると、そこには「踏入五郎弘氏が領し、子孫が上井氏を称した」とありました。
答え合わせどころか、諏訪氏と踏入氏の関係は?と、新たな疑問が生じたのでした。
上井氏は江戸時代に諏訪姓に復姓したので、諏訪一族には違いないと思うのですが・・・
ご先祖様の「踏入五郎弘氏」については、ググってもサッパリ何もわかりませんでしたハートブレイク

島津忠将の城となりました。

本田薫親を破り諏訪為秋を薩摩国永吉に移すと、上井は島津忠将の領地となりました。
島津忠将は島津忠良の子で、島津貴久の弟です。

1561年に廻城を巡る戦で島津忠将が戦死すると、子の島津以久が城主となりました。
島津以久は幼くして父を失ったため、島津貴久に育てられました。
そのせいか、1578年にあった耳川の戦では、敵陣で暴れ回り戦功第一とされました。
島津貴久の子は猛将ぞろいですが、どんな育て方したんでしょうね?w

1587年の九州征伐の後の事がちょっと???ですが・・・
某大聖典では、島津以久が子に清水城を譲り、自らは上井城を居城としたと書かれています。
一方、Wikipediaでは島津以久は、出典付きで種子島へ移り住んだと書かれていました。
・・・どちらが本当なんでしょう?www
他のサイト様では、上井城は九州征伐の後は荒れたと書かれていたりしました。
某大聖典の方が、ちょっと分が悪そうな感じです。


所在地:鹿児島県霧島市国分上井

鹿児島県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

無題

全然知りませなんだ!島津義久の墓の近くでもありますね!また寄るトコが増えました(^^)/
非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR