2017/06/03
舞鶴城/鹿児島県霧島市
舞鶴城は別名・国分城とも呼ばれる島津義久の城でした。訪問日は2015年6月13日です。

舞鶴城は島津義久が築いた屋形造りの城でした。
その跡地は現在、国分小学校となっています。
隣には国分高校があり、前の水路が繋がっています。
国分高校側から歩きましたが、水路にそって立派な白塀が続いていました。

石垣もそれっぽくて雰囲気あったのですが・・・
境目で小学校の石垣と並べて見ると、違いは一目瞭然。
本物の雰囲気って、やっぱりイイですね!

小学校前の堀には、ひと際目立つ石橋と、かなり目立つ赤い門があります。

この門がシンボルの朱門です。
現在は堀端に置かれていますが、説明板によると、城内のどこかにあったそうです。
そういえば、下の図ではここに橋も門も描かれていません。
明治以降に新しく造られた入口と思われます。

そのすぐ近くの歩道上に、石碑があります


近くには図入りの説明板もありましたので、その図の部分だけパクリます

朱門が城内にあったというのでやっぱり探しますが、赤く描かれた門が見当たらず・・・
門らしい門というと、左上の建物が密集した所に描かれている黒い門だけです。
朱門はこれでしょうか・・・?
曲輪は1つか2つで、正面に堀、背後に詰めの城があるのが基本的な構造です。
島津義弘の加治木館や、島津忠恒(家久)の築いた鶴丸城は、だいたいこんな感じですね。
島津義久がここに来る前に居た富隈城には、詰めの城はありませんでしたが・・・
◆歴史◆
1604年、島津義久により築かれました。
島津義久は1602年に島津忠恒に家督を譲っていたので、隠居城ということになります。
上の図を見ても、戦に備えた城というよりも、平時の居館らしい造りになっています。
1611年に亡くなるまで、島津義久はここを居城としました。
島津義久の没後は、娘の亀寿姫が暮らしました。
亀寿姫は島津忠恒の正室でしたが、島津義久の没後は別居させられ、舞鶴城で暮らしました。
島津義久存命中は島津義弘、島津忠恒と「三殿体制」と呼ばれる状態でした。
島津義久には男子がおらず、島津義弘の子・忠恒が島津家の後継者となりました。
そのためか、島津義久の娘を正室に迎え、島津家を1つにまとめようとしたのでしょう。
しかし、夫婦仲はサッパリで子が出来ませんでした。
1611年に島津義久が没すると、島津忠恒は亀寿姫を舞鶴城へ移し別居しました。
「三殿体制」と言われつつ、島津忠恒は島津義久に相当気を遣っていたようですね。
その後は側室を8人持ち、33人の子をもうけたそうです。
亀寿姫は「国分様」と呼ばれるようになり、1630年にこの地で没しました。
亀寿姫の没後は薩摩藩直轄地となり、明治時代になるまで地頭屋形が置かれました。
所在地:鹿児島県霧島市国分中央
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