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富隈城/鹿児島県霧島市

富隈城は住宅街の中にポツンとある小さな丘にありました。
訪問日は2015年6月13日です。

【写1】富隈城

北側の道です。
住宅街のド真ん中でこの段差はピピッ!と来ますよね?

【写2】富隈城

城跡は稲荷山公園となっています。
その入口がココです。
普通に階段が付けられていて、城跡感が・・・
ここが入口だったかどうか、見た目だけではわからず。
「城」と「館」の線引きがあやふやになりますw

【写3】富隈城

階段を上がると、芝生の広場に遊具のある普通の公園です。

【写4】富隈城

ただ、普通の公園とちょっと違うのは、公園の中に小さな山があることです。
私も煙とか猫と同じく、自然と高い方へと吸い寄せられましたあせる

【写5】富隈城

すると、一番高い所に物見櫓が!
・・・スルーして下さいあせる

【写6】富隈城

一番高い所からは、反対側に下りる道があったので、そちらから下りてみました。
すると、下には由緒がありそうな稲荷神社が。
社殿の中には、〇に十文字の島津家の家紋が見えます。

【写7】富隈城

階段を下りた所には、立派なツルピカ城址碑まであります合格

【写8】富隈城

往時のものかどうかは?ですが、石垣があったので撮ってみました。
反対側が高くなっているので、何となくですが、堀跡のように見えます。

【写9】富隈城

さらには駐車場に説明板まで!
・・・駐車場あったんすねw

【写10】富隈城

駐車場の入口がココです。
一段深くなっており、見た感じはやはり堀跡のようです。


◆歴史◆

1595年、島津義久により築かれました。

豊臣秀吉より当主の座を追われ、内城から出ざるを得なかったそうです。
この時に築かれたのが、薩摩から大隅に入ってすぐの所にある富隈城です。
この頃の出来事をザックリ並べると・・・

1587年、九州征伐
1592年、文禄の役直前に梅北一揆が起こり、島津歳久の首を要求。
1594年、太閤検地。領地安堵の朱印状の宛名は島津義弘でした。
1595年、島津義久が富隈城を築いて移る。

といった感じです。
豊臣秀吉は弟の島津歳久を討伐させたり、島津義弘を当主扱いしています。
当人どうしは仲は良かったそうですが家臣団は割れ、「両殿体制」状態となりました。

1604年、廃城になりました。

関ヶ原の戦で西軍に味方しましたが、1602年に島津家は徳川家康から領地を安堵されました。
この時に島津義久は御重物を島津義弘の子・忠恒に渡し、正式に家督を譲りました。
この頃から国分城を築き始めたようで、1604年にそちらへ移り、富隈城は廃城となりました。
家督を譲りはしたものの実権は握り続けたため、「三殿体制」と呼ばれるようになります。
島津義久は1611年、国分城で亡くなりました。


所在地:鹿児島県霧島市隼人町住吉

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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