2017/05/14
高尾城/鹿児島県姶良市
高尾城は、平山城へ行く途中の道端に登城口があります。訪問日は2016年12月31日です。

これがその登城口です。
山道に白い標柱があるので、とても目立ちます。
城キチは、白い標柱があるとつい見てしまう生き物です。

この標柱のサイドには、説明文が付いています。
標柱兼説明板の一人二役ですね!
この手の標柱は年月が経つと腐って倒れちゃうので、撮れてよかったです^^

主郭までの道は草が刈られており、こんな感じの歩きやすい道です。

石塔が並ぶ主郭までは、登城口から2分で着きました。
いつもならここでおしまいなのですが・・・
訪ねる前に参考にさせて頂いたサイト様では「堀切がある」と書かれていました。
もちろん、私が見に来たのはそっちですw

主郭に上がるちょっと手前の所で、北西側に下ります。
こちらには道は無いので、藪かき覚悟で訪ねましょう!
ちょっと下った所がこんな感じで、かなりまとまった広さの削平地があります。

その先端部まで進むと、約2メートル程の段差があります。
その下にもう1段の曲輪があります。

その先端部には、かなり密集した木?のような竹?のようなのがあります。
これを見て戦意を喪失してはいけません。
城キチたる者、その脇をスルリと華麗に進みましょう。

すると、その先にまた曲輪があります。

その先端部まで進むと、深さ2メートル程の堀切があります。

神々しいですね




その先もちょっと凹んだような感じに見えなくもない窪みがあり・・・
どうやらこれを「三重堀切」と呼んでいる感じです。
もうちょっとドンドンドンみたいのを期待してたんですけどね(´・ω・`)
◆歴史◆
標柱の文章(そのまま)
高尾城跡はここから東にある戦国時代の平山城跡の支城です。
大永六(一五二六)年には辺川忠直と島津忠良との間で戦いがありました。
慶長三(一五九八)年に山頂へ稲荷神社が建てられました。
高尾城跡はここから東にある戦国時代の平山城跡の支城です。
大永六(一五二六)年には辺川忠直と島津忠良との間で戦いがありました。
慶長三(一五九八)年に山頂へ稲荷神社が建てられました。
1つずつ突っ込んでみます(`・ω・´)
平山城の支城でした
平山城は、高尾城の約400メートル東にあった山城です。
築城は鎌倉時代後期の弘安年間(1278~87年の間)とされ、平山氏が居城としていました。
戦国時代になり島津季久が平山氏を滅ぼすと、短い周期で城主が代わるようになりました。
平山城は、高尾城の約400メートル東にあった山城です。
築城は鎌倉時代後期の弘安年間(1278~87年の間)とされ、平山氏が居城としていました。
戦国時代になり島津季久が平山氏を滅ぼすと、短い周期で城主が代わるようになりました。
1526年、島津忠良に攻め落とされました。
標柱に書かれている「辺川忠直」は島津家の家老である川上氏の一族です。
辺川が領地であることから、辺川姓(へがわ)を名乗りました。
この頃は島津宗家当主・島津忠兼(のち勝久)に力が無く、薩州家と伊作家が争いました。
島津忠兼は薩州家の島津実久をウザく思い、伊作家の島津忠良の力を借りて対抗しました。
そのため、島津忠良の嫡男・貴久を自らの養子に迎え、家督を継がせたのがこの年です。
しかし、島津忠兼には人望が無く、実力者である島津実久に寝返る者が多くありました。
辺川忠直もその一人で、島津実久に従って謀反を起こしたため、島津忠良に討伐されました。
標柱に書かれている「辺川忠直」は島津家の家老である川上氏の一族です。
辺川が領地であることから、辺川姓(へがわ)を名乗りました。
この頃は島津宗家当主・島津忠兼(のち勝久)に力が無く、薩州家と伊作家が争いました。
島津忠兼は薩州家の島津実久をウザく思い、伊作家の島津忠良の力を借りて対抗しました。
そのため、島津忠良の嫡男・貴久を自らの養子に迎え、家督を継がせたのがこの年です。
しかし、島津忠兼には人望が無く、実力者である島津実久に寝返る者が多くありました。
辺川忠直もその一人で、島津実久に従って謀反を起こしたため、島津忠良に討伐されました。
平山城は城主がコロコロ代わりました。
標柱には書かれていないのですが、メインの平山城は争奪戦が繰り返されました。
1526年、辺川忠直の次に平山城に入ったのは、島津薩州家の分家筋の島津昌久です。
島津薩州家の中で争いがあった時、伊作家の島津善久が島津昌久を助けています。
しかし、島津昌久は島津忠良に反抗する姿勢を見せたため討たれました。
代わって城主となったのが伊地知重辰です。
1529年、祁答院重武が平山城を攻め、伊地知重辰を討ちました。
1555年に島津貴久が祁答院良重を破るまでの間、祁答院氏が平山を支配し居城としました。
岩剣城の戦で祁答院良重が退いた後は、島津貴久の家臣・鎌田政年が城主となっています。
標柱には書かれていないのですが、メインの平山城は争奪戦が繰り返されました。
1526年、辺川忠直の次に平山城に入ったのは、島津薩州家の分家筋の島津昌久です。
島津薩州家の中で争いがあった時、伊作家の島津善久が島津昌久を助けています。
しかし、島津昌久は島津忠良に反抗する姿勢を見せたため討たれました。
代わって城主となったのが伊地知重辰です。
1529年、祁答院重武が平山城を攻め、伊地知重辰を討ちました。
1555年に島津貴久が祁答院良重を破るまでの間、祁答院氏が平山を支配し居城としました。
岩剣城の戦で祁答院良重が退いた後は、島津貴久の家臣・鎌田政年が城主となっています。
・・・平山城の歴史になってしまいました

所在地:鹿児島県姶良市鍋倉
鹿児島県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント