2017/05/13
帖佐館/鹿児島県姶良市
帖佐館は、島津義弘が朝鮮出兵から帰還後に築いた居館です。訪問日は2016年12月31日です。

帖佐館跡は、現在は帖佐稲荷神社となっています。
真正面から見た所ですが、稲荷神社なのに鳥居が赤くないですね・・・
神社なので楽に車を停められると思っていたので、ちょっと駐車場を探しました。

たまたまですが、鳥居から左へ回り込んだ所に綺麗な駐車場が

入り込んで確かめたところ、花園寺跡公園の駐車場でした。
もちろん無料ヾ(*´∀`*)ノ

ここからじっくりと石垣を堪能します。
駐車場を出てすぐの所はかなり低いものの、見た感じは年代を感じる石垣です

こうやって見るとかなり崩されてはいるものの、奥に見える正面は土塁も多少残ってますね!

正面左側のコーナーから見た所です。
サイドはかなり石垣が低かったですが、正面だけは原型を留めているようです。

正面を横切って、今度は反対のコーナーから見た所です。
やっぱり石垣は、端から端まで一気に見渡す光景がイイですね!
石垣の手前側は石が綺麗ですが、積み直したのでしょうか?

右サイドの中央に入口があり、ここがかつての大手門だったそうです。
「大手門」という響きが、破壊から守ってくれたのでしょうか。
逆サイドとは対照的に、こちらサイドの石垣はよく残っています。

大手門脇にある石碑です。
「惟新公邸址之碑」と彫られています。
惟新公は、島津義弘のことです。

正面部分を内側から見た所です。
土塁を石垣で組んでます。
・・・「土塁」という表現が正しいかどうかは?ですが

こうして見ると、外周には水堀があったのかもしれませんね。
◆歴史◆
1595年、島津義弘により築かれました。
島津義弘は、それまでは真幸院に近い栗野城を居城としていました。
1592年から翌1593年にかけて、島津義弘は文禄の役で朝鮮半島へ出陣していました。
この時は梅北一揆により兵を動員出来ず着陣も遅れ、『日本一の大遅陣』と面目を失いました。
また、朝鮮の陣中では島津家の後継者で次男の島津久保を病で失いました。
居城の変更は、そんな不幸続きの状況を変えようとしての事だったのかもしれません。
その効果があったのかは???ですが・・・
島津義弘は、1597年から翌1598年にかけて慶長の役で再び朝鮮半島へ出陣しました。
この時は元均や李舜臣など、朝鮮水軍の主将を討ち取りました。
さらに泗川の戦では、明・朝鮮連合軍3万(島津家の史料では20万)を7千の兵力で破りました。
この戦について徳川家康は「前代未聞の大勝利」と評しています。
この大活躍が、数年後に島津家存続に影響したと思われます。
関ヶ原の戦では、島津義弘はまたしても国元から兵を送られず、苦しい戦いを強いられました。
それは、直前に庄内の乱が起こったため仕方のない事でしたが・・・
島津義弘は大坂在番の約1千の兵で参戦しました。
はじめは徳川家康の援軍要請に応じて、鳥居元忠の籠る伏見城に向かいました。
しかし、鳥居元忠が「そんなの聞いてない」と入城を拒否。
周囲を西軍に囲まれた中に取り残された島津義弘は、やむなく西軍として行動したそうです。
長くなりそうなのではしょりますが・・・
関ヶ原で雌雄が決した所で、島津義弘は伝説に残る撤退劇を演じました。
300にまで減らされた兵をひとまとめにして、敵中突破を敢行したのです。
島津軍の異様な気配を察した福島正則は、島津軍には手を出さぬよう家臣に命じた程です。
それでも追撃した井伊直政は重傷を負わされ、この傷が元で2年後に世を去っています。
戦後処理の際、徳川家康は島津家討伐には踏み切れず、家督の交代だけで済ませました。
伝説的な武勇を誇る島津義弘が健在な上、兵力が温存されているためでした。
1607年、島津義弘が加治木へ移りました。
島津義弘が加治木へ移った後、帖佐には島津久賀が地頭として入りました。
島津久賀は豊州家の7代目当主ですが、島津義弘の孫(娘の子)でもあります。
父親が文禄の役の際に朝鮮で没し、14歳で家督を継いでいます。
以後の豊州家は島津家の家老を務め、帖佐・黒木の地頭として明治まで続きました。
所在地:鹿児島県姶良市鍋倉
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