2017/05/10
建昌城/鹿児島県姶良市
建昌城は「けんしょう」とも「たてまさ」とも読むそうです。訪問日は2015年6月14日と2015年12月31日です。

拡大図
はじめに、入口にある図を載せます。
現地でこれを見ながら迷ったスーパー迷子がココに1匹いますが・・・

訪問日が2回あるのはそのせいです。
ただ、1回目の日は生憎の雨模様だったので、それはそれで良かったのかもしれません。

ここが城跡の入口です。
立派なトイレがあり、その壁面に上に載せた図があります。
1回目に迷ったのは、城跡が真正面にあると思ったからでした。

だって、真正面にこんなのがありますからw

城キチには緑色の文字なんて見えません。
(冗談です、真に受けないで下さいね)
「市民農園 建昌城」は、ごらんの通りネットが張られ、一般人は中に入れません。
こんなに立派な図まで付けて中に入れらせないなんて、何て意地悪な・・・
と、超ひねくれスーパー迷子は思ったのでした。

それでも、雨の中を外周のネットに沿って1周回ろうとしましたけどw
結局、途中で草深い所があり、その日は断念して次の城跡へ飛んだのでした。
2回目は年末年始の帰省ついでで、お天気は城跡巡り日和

思い込みとは恐ろしいもので、1回目で見られなかった草深い所から更に奥へ進みました。
しかし、農園は農園で溝跡らしきものは全く見当たらず・・・
結局「あれれ???」といった感じで、農園のネットの周りを1周したのでした。

しかし、そんな馬鹿な城キチを哀れんだのか、1周回ってスタートに戻る直前にこんな風景が。
草むらをザクザク歩いたのも無駄ではなかったのか、ようやく城跡っぽいものが見えました。
・・・無駄は無駄ですけどw
こんな無駄歩きをする城キチを今後出さない意味でも、これを書いてます

地図載せて偉そうにブログ書いてても、根は超方向音痴ですから( ゚Д゚)v

前置きばかり無駄に長くなりましたが、城跡は農園を正面に見て左手前にあります。
外周のネットを2回続けて反時計回り(農園を正面に見て右)に進んだのも不運でした

左へ進めば、すぐにこんな感じの怪しげな地形が目に飛び込みます。
あまりに綺麗に整い過ぎているので、復元なのか、造形なのかの区別がつきません。
ここは上の図の「櫓之丸」に当たる場所です。

しかし、そこから更に奥へと続く道を見て、城キチはピン!と来たのでした。
傍から見ると、〇〇ゾロゾロにすぅぅぅっと吸い込まれるアレに見えなくもないですが・・・w
実は、この道も堀跡だったりします。

怪しい道を進むと、すぐに左側にこんな札が現れます。
・・・本丸www
最初に見た曲輪が本丸でした。
農園も本当は西之丸という曲輪の跡ではありますが

「本丸」ということで入り込みましたが、ただ削平されただけで、特に造作は見当たりません。

曲輪自体はそれほど凝っていませんが、次から次に堀が現れます。
堀好きに目覚めた私には、ココ天国


曲輪と曲輪を仕切る立派な堀が魅力的ですが、二の丸には立派な土塁が一部残っています。

堀底道をどんどん奥へ進み、ついに突き当りが見えてきました。

堀と堀が交わり、土塁との高低差が生み出す光景こそ、堀好きの大好物です


一番深い堀は、こんな感じでした。

堀の終点から振り返った風景です。
堀の一番奥が見えないくらい、距離が長いです。

一番奥の手前の右側にある曲輪です。
他の曲輪とちがって草が刈られ、公園のように整備されています。

本丸でも何でもない「常見之丸」ですが、一番きれいに広く削平されています。
もしかしたら、建昌城の主要部はここだったということでしょうか?
城址標柱や説明板がここの木の下にありました。
◆歴史◆
享徳年間(1452~54年の間)に島津季久により築かれました。
島津季久は島津家当主・島津忠国の弟です。
この頃に平山城の平山武豊を討ち、帖佐を領地に加えました。
この時に島津季久が瓜生野城(建昌城の前身)を築き、居城としました。
平山氏と島津氏は養子縁組をするなど、一族のような親密な関係にありました。
しかし、何かで対立してこのような事になったそうですが・・・
ググって出て来るのは「島津忠国に反抗した」ぐらいです。
1486年、一時廃城となりました。
島津季久の嫡男・島津忠廉が日向国・飫肥城へ移りました。
飫肥の新納忠続と櫛間の島津久逸が、領地を巡って争っていました。
島津久逸は島津忠昌の鹿児島も攻めましたが、島津忠昌側として島津忠廉が撃退しました。
争いの後両者ともに本貫地へ戻され、その両方が島津忠廉に与えられました。
この時に、瓜生野城は一時廃城となりました。
1600年、再び整備されました。
関ヶ原の戦で西軍に味方し敗れた島津義久が、徳川家康の侵攻に備えて城を整備しました。
結局のところ、島津忠恒は鶴丸城を築いて本拠としました。
父の島津義弘は、建昌城か一宇治城を改修すればいいのでは?とアドバイスしていたそうです。
建昌城は本拠にはならなかったものの、しばらくは城として使われていたようです。
1615年に幕府の巡検使に対し、薩摩藩側が建昌城について言及した記録があるそうです。
その後の史料には登場しないため、この年の一国一城令を機に廃城になったと思われます。
昭和に危機がありました。
西側に育雛場が建てられ、一部遺構が失われました。
九州自動車道を建設する際、城跡から土砂を採取する計画もあったそうです。
そこは地元自治体が反対し、事なきを得たそうです。
・・・というお話が、Wikipediaには書かれていました。
所在地:鹿児島県姶良市西餅田
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コメント
無題
2017/05/10 13:17 by トシraud URL 編集
Re:無題
図を見ていると、大手口と搦手口に挟まれた胡麻ヶ城が最初の瓜生野城だったかもしれませんね。藪はもう時期的にアウトなので、年末辺りに再訪問されるのでしょうか。県と市が守ったことのある城跡なので、大丈夫だと思いますよ!
2017/05/10 21:36 by なぽ URL 編集