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諏訪城/鹿児島県姶良市

諏訪城は姶良総合体育館の東側の舌状台地にありました。
訪問日は2017年1月1日です合格

【写1】諏訪城

この日最初に訪ねたのが、諏訪城でした。
そのすぐ隣にある体育館の駐車場は、日の出前から大盛況。

【写2】諏訪城

この駐車場はこんな感じで、とても眺めが良いです。

【写3】諏訪城

駐車場へ続く道から見上げたら、何やら人だかりが出来ています。
自分は初日の出を見ず、見に来た方達を物珍し気に眺めている珍種です。
だって、目の前に城跡があるんですからラブラブ

【写4】諏訪城

夜が明けて明るくなるのを待ち、下の駐車場脇の雑木林に突撃する不審者。
城キチって、だいたいこんな感じでしょうか? 違いますかね・・・
道は無いと決めつけちゃっているので、始めから直登する気マンマンですw

【写5】諏訪城

ということで、こんな感じの斜面を黙々と登りました。

【写6】諏訪城

登り切ると平坦だったので、すでに曲輪だったものと思われます。
木々に埋もれた平坦地を東へ進むと、深さ2m程の溝がありました。
恐らく、曲輪と曲輪の境にあった堀跡と思われます。

【写7】諏訪城

さらに進むと崖っぷちのようになり・・・
大きな堀切にぶつかったのでした。
いきなり現れたので、ちょっと意表を突かれました。

【写8】諏訪城

堀切から先は、舌状台地の北側を下る道が付けられていました。
この先がどこに通じているのか確かめませんでしたが・・・
それがわかれば、ここへの登城はかなり楽になりますねあせる

【図】諏訪城

絵心ゼロなので普段は描かないのですが、お城の構造は大体こんな感じです。
私は図の左下から斜面を直登しましたが、右下辺りからセメント舗装された道がありました。
腰曲輪まで続いてはいないようでしたが、ここから登った方がかなり楽そうです。


◆歴史◆

築城年代や城主は定かではありません。

諏訪城は、建昌城の支城として島津氏によって築かれたとされます。
建昌城は享徳年間(1452~55年の間)に、島津忠国の弟・島津季久により築かれました。
この時は「瓜生野城」と呼ばれていました。
島津季久は島津豊州家の祖で、応仁の乱では父や兄とは反対側の西軍につきました。
甥の島津忠昌とは対立し、一時はその居城である清水城に迫ったこともあります。

島津季久の没後、豊州家2代目の島津忠廉が1486年に日向国・飫肥城へ移りました。
この時に瓜生野城は一度廃城になったので、この30年の間に諏訪城があったことになります。

瓜生野城は関ヶ原の戦の後、島津氏により整備された時期がありました。
この時に島津義弘が「建昌城」と名付けたそうです。
諏訪城は建昌城の支城ですが、立派な堀切以外の構造は割と単純です。
なので、私は戦国時代初期の城跡だと思います。


所在地:鹿児島県姶良市平松 GPSログダウンロードページ

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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