2017/05/09
諏訪城/鹿児島県姶良市
諏訪城は姶良総合体育館の東側の舌状台地にありました。訪問日は2017年1月1日です


この日最初に訪ねたのが、諏訪城でした。
そのすぐ隣にある体育館の駐車場は、日の出前から大盛況。

この駐車場はこんな感じで、とても眺めが良いです。

駐車場へ続く道から見上げたら、何やら人だかりが出来ています。
自分は初日の出を見ず、見に来た方達を物珍し気に眺めている珍種です。
だって、目の前に城跡があるんですから


夜が明けて明るくなるのを待ち、下の駐車場脇の雑木林に突撃する不審者。
城キチって、だいたいこんな感じでしょうか? 違いますかね・・・
道は無いと決めつけちゃっているので、始めから直登する気マンマンですw

ということで、こんな感じの斜面を黙々と登りました。

登り切ると平坦だったので、すでに曲輪だったものと思われます。
木々に埋もれた平坦地を東へ進むと、深さ2m程の溝がありました。
恐らく、曲輪と曲輪の境にあった堀跡と思われます。

さらに進むと崖っぷちのようになり・・・
大きな堀切にぶつかったのでした。
いきなり現れたので、ちょっと意表を突かれました。

堀切から先は、舌状台地の北側を下る道が付けられていました。
この先がどこに通じているのか確かめませんでしたが・・・
それがわかれば、ここへの登城はかなり楽になりますね


絵心ゼロなので普段は描かないのですが、お城の構造は大体こんな感じです。
私は図の左下から斜面を直登しましたが、右下辺りからセメント舗装された道がありました。
腰曲輪まで続いてはいないようでしたが、ここから登った方がかなり楽そうです。
◆歴史◆
築城年代や城主は定かではありません。
諏訪城は、建昌城の支城として島津氏によって築かれたとされます。
建昌城は享徳年間(1452~55年の間)に、島津忠国の弟・島津季久により築かれました。
この時は「瓜生野城」と呼ばれていました。
島津季久は島津豊州家の祖で、応仁の乱では父や兄とは反対側の西軍につきました。
甥の島津忠昌とは対立し、一時はその居城である清水城に迫ったこともあります。
島津季久の没後、豊州家2代目の島津忠廉が1486年に日向国・飫肥城へ移りました。
この時に瓜生野城は一度廃城になったので、この30年の間に諏訪城があったことになります。
瓜生野城は関ヶ原の戦の後、島津氏により整備された時期がありました。
この時に島津義弘が「建昌城」と名付けたそうです。
諏訪城は建昌城の支城ですが、立派な堀切以外の構造は割と単純です。
なので、私は戦国時代初期の城跡だと思います。
所在地:鹿児島県姶良市平松 GPSログダウンロードページ
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